【大人のMusic Calendar】
シングル「レット・イット・ビー」が日本でリリースされたのは1970年3月25日だった。日本はEXPO’70開催で沸き立っていた。その世相とは裏腹に僕の気持ちはどこか騒ついていた。その感情が僕の裡に芽生えたのはほぼ1年前、1969年初頭である。
アルバム『The Beatles』(ホワイトアルバム)」が日本で発売されたのは1969年1月だった。その日は東大安田講堂占拠事件と重なっていた。
待ちに待ったザ・ビートルズの新譜である。『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』のリリースから約1年半。当時は情報量も少なく僕は当日レコード店でそのディスクを受け取るまでそのアルバムジャケットに大きな期待を抱いていた。『Revolver』のアルバムジャケットに驚かされ、それは『Sgt. Pepper's』のその煌びやかで豪華なジャケットへと続き、ビートルズの変化、進化、そして頂点を極めた状況をサウンドだけでなくヴィジュアルからも僕は感じ取っていた。
だが、同時にザ・ビートルズの中でその結束のバランスがおかしくなって来ていることも感じ始めていた。まず、1967年以降、シングル盤のAサイドはポール主導になりつつあった。1968年、ジョンはオノ・ヨーコとの活動が増えどこかビートルズの外にいた。ジョージはインドに傾注していたしアルバム『Wonderwall Music』は難解だった。リンゴに目立った活動はなく映画俳優としてそのキャラクターを活かすというニュースが流布していた。ポールだけがビートルズを頑張っていたのだ。そんな状況の中リリースされたのがホワイトアルバムである。
ホワイトアルバム情報を最初に僕が知ったのは多分、音楽専門誌ミュージックライフからだったと思うが、耳に届いたのはオールナイトニッポン、DJ糸居五郎さんの番組からだった。それは1968年11月後半もしくは12月。ザ・フォーク・クルセダーズ解散の時期と重なっていた。
糸居さんは自身の番組の中で「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」をオンエアした。まず、そのビーチボーイズ風コーラスに驚かされ、その曲のメイン・ボーカルがポールであることからやはりビートルズはポール主導に変わってきてるんだなぁとそこでも感じ入った。そして何故かリズムのパターンが直線的でフラット、それまでのビートルズの躍動感とはちょっと違う印象を受けた。その時点でこの曲のドラムをポールが叩いていることなど知る由もなかった。
糸居さんはこの時、アルバムが2枚組であること、ジャケットには通し番号(シリアル・ナンバー)が振ってあること、そしてジャケットの『The Beatles』という文字が立体的になっているなどの情報を提供してくれた。しかし僕が一番知りたかった肝心のアルバムジャケット図案そのものについては触れなかった。『Revolver』『Sgt. Pepper's』からこれほどかけ離れたデザインだったにも拘らず何故この時、糸居さんがジャケットについて言及しなかったのかは不明である。レコード・メーカーから届けられた資料にそのジャケット写真が載っていなかったのか? 当時レコード・メーカーが配布していた資料は多分一色刷りだと思う。つまりホワイトアルバムのジャケットである。そこに掲載されているレコードジャケットは真っ白なわけだから見逃してしまっていたのかもしれない。
ゆえに年明け1969年、レコード店で手にした『The Beatles』のアルバムジャケットに僕は大きな衝撃を受けた。『Sgt. Pepper's』以降、どのアーティストもそのデザインはアートでポップ、カラフルなものへと移行、彼らの主張がそのジャケットから見て取れた。それはサイケデリック・ムーブメントの煽りもあったのだろう。ザ・ローリング・ストーンズ、クリーム、ピンク・フロイド、アレクシス・コーナー、ジミ・ヘンドリックス等のアルバムジャケットは僕を大いに楽しませてくれた。アルバムジャケットというものにアートを持ち込んだのは紛れもなくザ・ビートルズ『Revolver』だった。つまりまだまだビートルズはロックの、ポップ・ムーブメントの最先端にいた。
だが、ビートルズの新作ジャケットは肩すかしを食らうくらい「真っ白」で、一瞬言葉を失うほどだった。ビートルズがビートルズを清算しようとしている、どこか全てを放棄している、投げ出している、このジャケット・デザインにはそんなもの言わぬメッセージが込められている、僕はそんな深読みをした。ある意味痛快で心地よく期待を裏切り続けるところがこれまでのビートルズだった。しかしながら2枚組というボリュームにも圧倒されたがそこに収録されている曲はもはやバラバラになってしまったビートルズの始まり、後始末のようにさえ僕には響いた。これがホワイトアルバムを初めて聴いた時の感想である。『Revolver』『Sgt. Pepper's』それ以降のシングルやEP「Magical Mystery Tour」でも言えることだが、ホワイトアルバムではさらにデビュー以来ジョンとポールがイーブンでボーカル・ハーモニーを重ね進行して行く作品は1曲も存在していなかった。後にビートルズ自身も語っているがジョンとバックメンバー、ポールとバックメンバー、ジョージとバックメンバー、リンゴとバックメンバーでこのアルバムは仕上がっていた。かろうじてポールだけが他の3人の作品に手助けをしている感じがした。
1969年はルーフトップセッションのニュースやアルバム『Abbey Road』発表で救われたこともあったがどこかビートルズはその揺らぎだした結束というロープの上を綱渡りをしているように見えた。多分、あの時期、多くのビートルズ少年たちはビートルズはどこへ行くのだろうと不安に思っていたはずだ。
「元祖TOKYO BOYカタログ」 2013/10/>1969年秋-17歳僕は新宿を放浪していたその2. >
ザ・ビートルズの動向に関して、僕たちは不安で不穏な70年代を迎えた。アルバム『Abbey Road』以降、ビートルズは身を潜めていた。ジョン・レノン&プラスティック・オノ・バンド『平和の祈りをこめて~ライヴ・イン・トロント』が2月にリリースされ僕はそれを新宿帝都無線で購入した。Aサイドはルーズだがライブということもありそこで聴くジョンの声は嬉しかった。当時、ビートルズのライブ盤はリリースされていなかったし、まだブートレグも日本には到着していなかった。僕が知る限りビートルズのライブ音源はエド・サリヴァン・ショーと映画の『ポップギア』、そして武道館公演でしか聴いたことがなかった(『OUR WORLD 〜われらの世界〜』は除く)。エド・サリヴァン・ショーは再放送されていなかったし『ポップギア』は映画館で二度ほど観たきりだった。直に目撃した武道館公演、そしてオープンリールでTVからエアチェックしていた武道館公演、その数少ない体験だけが僕の知るビートルズ・ライブ音源だった。レコードとは違い粗雑で迫力に欠ける、それでも生々しいビートルズ・ライブ音源は当時としては魅力的だった。だから例えソロであれ、まだかろうじてビートルズのメンバーであったジョンのライブ・パフォーマンスが聴けるアルバム『平和の祈りをこめて~ライヴ・イン・トロント』は、その出来はさることながら、僕にとっては貴重なアイテムだった(Bサイドはほとんど聴いてない)。
しかし一方このアルバムはさらにジョン・レノンのビートルズ離れを暗示していた。ザ・ビートルズからやはりジョン・レノンは脱退してしまうのかも、微かな不安が僕の頭を過ぎった。
そんな中、ビートルズのシングル「レット・イット・ビー」リリース情報を耳にした。だが、その曲を僕はビートルズより先にアレサ・フランクリン・ヴァージョンで聴いた。小さなラジオ・スピーカーから流れてくるアレサ・ヴァージョンは随分メロディーを崩していることが想像できた。だからそのメロデイーの骨格はビートルズのオリジナルを聴くまではっきり判断できなかった。
日本はEXPO’70で浮かれていた。東京オリンピック以来の国を挙げての祭り騒ぎだ。戦後復興してゆく日本、その幕開けの大イベント東京オリンピックが開催された1964年にビートルズは「抱きしめたい」で日本デビューを飾った。あれから6年。そしてやがて来るであろう未来を期待させるEXPO’70。11歳だった僕も17歳になっていた。そんな中リリースされた「レット・イット・ビー」は重く暗く物哀しい、まるで葬送曲のようなピアノでスタートした。僕は「レット・イット・ビー」というタイトルを文字通り「なすがままに=あるがままに」と解釈した。それは意味深なタイトルだった。手に入れたシングル盤のジャケットは黒く縁取られ4人の表情も個々に独立していた。そのポートレートはポールだけが正面を見据え、ジョン、ジョージ、リンゴのアップは左斜めに構えたものが選ばれていた。
4月10日、新学期が始まったばかりの夕方、帰宅して僕が開いた夕刊に「ポール、ビートルズを脱退」の記事が大きく載っていた。僕はついにそのX-Dayを迎えてしまったのだ。しかし、なぜ脱退がジョンではなくポールなのか? 3人のメンバーの心がビートルズから離れて行くのを薄々僕は感じていた。それをなんとか引き戻そうとしているのがポールだと理解していた。だから脱退声明を出したのがジョンではなくポールだった事がショックだった。そして冷静さを取り戻し、とてもやりきれない気持ちになった。ポールのメッセージ「レット・イット・ビー」はメンバーに向けてのものなのか? あるいは自分への問いかけなのか? そのメッセージは他の3人には届かなかったのだろうか? あるいは他の3人はそのメッセージを受け入れ、あるがままにビートルズでは無い自分の行く道を決めてしまったのだろうか…。もはや手に負えなくなったビートルズを見放したのが一番ビートルズを愛していたポールなんだと考えると「レット・イット・ビー」はさらに重く哀れに響いてきた。
翌日、4月11日「レット・イット・ビー」はビルボード誌のシングルチャート1位を獲得する。翌週4月18日、ポール脱退声明=ビートルズ解散の影響もあり「レット・イット・ビー」は2週続けて1位を維持する。ビートルズ解散がまだどことなく現実味を帯びていないまま「レット・イット・ビー」はセールスを伸ばし続けた。
僕は途方にくれる感覚を味わった。それはザ・ビートルズで育ってきたすべてのビートルズ少年たちに共通する気持ちだったと思う。
「そんなはずじゃないだろうビートルズ」(仲井戸麗市“新宿を語る 冬”)、ビートルズ少年たちはきっとあの時心の中でそう叫んだはずだ。その心の中にあるひとつの指針を失った僕はどこか少年期の終わりを無意識に感じていたのかもしれない。1970年4月18日「レット・イット・ビー(なすがままに=あるがままに)」、そんなビートルズからのメッセージはなかなか受け入れられなかった。
【著者】森川欣信(もりかわ・よしのぶ):1952年8月22日 高知県生まれ。ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック)、キティ・レコードにてディレクターを務める。RCサクセション、バービーボーイズ、ヒルビリーバップス等様々なアーティストの作品に携わる。1992年オフィス オーガスタを設立。杏子 山崎まさよし スガシカオ COIL あらきゆうこ 元ちとせ スキマスイッチ 長澤知之 秦基博 さかいゆう 竹原ピストル 松室政哉 等多くのアーティストを発掘。現在は同社:最高顧問。著書に『Gotta 忌野清志郎』(連野城太郎)がある。