【大人のMusic Calendar】
1958年、『日劇ウエスタンカーニバル』のスタートによって最盛期を迎えたロカビリー・ブームだったが、平尾昌章(のちに昌晃)など、これまで同時代の洋楽ヒットの日本語カヴァー盤をリリースしていた人気ロカビリー歌手たちが、次々にオリジナル歌謡曲を歌うようになるとブームは沈静化。60年代に入るとロカビリー系歌手に代わり、ザ・ピーナッツ、弘田三枝子、森山加代子、中尾ミエ、伊東ゆかりなどの女性シンガーや、スリー・ファンキーズ、ダニー飯田とパラダイス・キング等のポピュラー系グループが洋楽カヴァー曲のヒットを連発し、所謂「カヴァー・ポップス黄金時代」が到来する。
そんな時代のヒット・レコードの大半に訳詞(もしくは作詞)者として、その名がクレジットされ、まさにカヴァー・ポップス時代の牽引車的役割を果たしたのが漣健児である。今から88年前の今日1931(昭和6)年2月4日、東京・飯田橋に生まれた彼(本名・草野昌一)は、早稲田大学在学中の1951年に父親の経営する新興楽譜出版(現シンコーミュージック・エンタテイメント)で、同社が戦後間もなくに刊行した投稿・楽譜誌『ミュージック・ライフ』を大幅に改編。当時流行のジャズからタンゴまで幅広い洋楽情報を扱う音楽雑誌に大変身させ、新装版の初代編集長となった。
ジャズ~マンボ(ラテン)~ロカビリーといった50年代の音楽流行の変遷とコミットした『ミュージック・ライフ』は売り上げも順調で、草野昌一の存在も音楽業界で注目され、58年に新興楽譜出版の専務取締役に就任。終生、彼のニックネームとなる“センム”となって2年後の1960年に、実弟の浩二がディレクターを務める坂本九の2ndシングル「ビキニスタイルのお嬢さん」のB面曲として、R&B歌手ジミー・ジョーンズの「ステキなタイミング(Good Timin‘)」のカヴァーを提案したことから、自ら訳詞も手がけることとなる。
それまで新興楽譜出版から出たクリスマス・ソング楽譜集の中で「赤鼻のトナカイ」の訳詞を新田宣夫のペンネームで手がけたことはあるが、ポップス・ヒット作品に日本語詞を付ける作業は初めてということで、「歌が“漣(さざなみ)”のように拡がるように」という思いと、石神井中学在学中の呼び名“石中健児”から「漣健児」というペンネームを考案。「ステキなタイミング」は漣健児の記念すべきデビュー作品となった。
オリジナル歌詞には無い独自の解釈・世界観・文体で “作詞”した「ステキなタイミング」は、A面を遥かに凌ぐ大ヒットとなり、新鋭訳詞家・漣健児の名は一躍業界に知れ渡る。以後、中尾ミエ「可愛いベイビー」、弘田三枝子「ヴァケーション」、田代みどり「パイナップル・プリンセス」、森山加代子「月影のナポリ」、飯田久彦「ルイジアナ・ママ」、鈴木やすし「ジェニ・ジェニ」、ダニー飯田とパラダイス・キング「シェリー」など、手がけた作品は400曲以上。その中にはオリジナル盤以上にヒットした曲も多く、漣健児の名前は知らなくても、これらの作品を知らぬ人はいないと言われるほどの隠れたヒットメイカーとして君臨するのである。
1964年、ビートルズが米国進出し、日本を含む世界中のポピュラー音楽シーンに大きな影響を与えるようになると、カヴァー・ポップス黄金時代にも斜陽が射し始める。漣が日本語詞を東京ビートルズ、スリー・ファンキーズに提供した「抱きしめたい」のカヴァー盤も不発に終わった。漣が後年のインタビューで「ビートルズの歌詞にはメッセージ性があり、それまでの“昨日あの娘とデートして…”という訳詞では無意味になってしまった」と述懐しているように、自作自演のオリジナル楽曲で完結しているビートルズの世界に、もはや訳詞者が仲介する余地は無かったのである。
それを裏付けるように60年代後半以降は、カヴァー・ポップス盤の生産ペース自体が下降。漣もGSブーム期にカーナビーツに提供した「好きさ好きさ好きさ」(傑作!)、「オブラディ・オブラダ」、珍しくオリジナル曲の作詞を手がけたジャガーズ「ダンシング・ロンリー・ナイト」、森山良子に提供した「悲しき天使」(68年)あたりを境に作詞活動から離れて行った。
以後は訳詞家時代から並行して行なってきた国内外楽曲の音楽著作権ビジネス、原盤制作などの業務に専念。70年代にチューリップ、甲斐バンド、80年代にレベッカ、プリンセスプリンセス等を世に送り出し、長年の音楽業界への貢献と功績から98年に日本レコード大賞功労賞を受賞。翌99年には藍綬褒章を叙勲している。
シンコーミュージックの代表取締役会長となってからも音楽業界の第一線で精力的に活動を続けており、晩年ポエトリー・リーディングに注目した彼は久々に詩を書き始め、ジャズ・コンボの演奏をバックに九重佑三子が朗読するCD-BOOK『シャンテ』(2004年)を制作。これが漣健児としての最後の仕事となってしまった。翌2005年6月6日、すい臓がんのため永眠。享年74歳だった。
カヴァー・ポップス黄金時代を築いた漣健児の訳詞作品の数々は、洋楽ポップスに日本語詞を乗せる実験的役割を担っていった。そして、それは60年代後半から興隆する日本人作曲家・作詞家たちによるオリジナル・ポップス「和製ポップス」を生み出す下地となり、現在のJ-POPの源流となっていったのである。
坂本九「ビキニスタイルのお嬢さん」(B面ステキなタイミング)中尾ミエ「可愛いベイビー」森山加代子「月影のナポリ」東京ビートルズ「抱きしめたい」スリー・ファンキーズ「抱きしめたい」撮影協力:中村俊夫&鈴木啓之
【著者】中村俊夫(なかむら・としお):1954年東京都生まれ。音楽企画制作者/音楽著述家。駒澤大学経営学部卒。音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。共著に『みんなGSが好きだった』(主婦と生活社)、『ミカのチャンス・ミーティング』(宝島社)、『日本ロック大系』(白夜書房)、『歌謡曲だよ、人生は』(シンコー・ミュージック)など。最新著は『エッジィな男 ムッシュかまやつ』(リットーミュージック)。