1985年1月28日、ポップ・ミュージック史における金字塔となるヒット曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」が録音

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2018年11月9日に公開となった映画『ボヘミアン・ラプソディ』の日本における異例とも呼べる大ヒットに伴い、題材となったフレディ・マーキュリーおよびクイーンは当然として、改めて一般的な関心を集めたのが劇中のハイライトに位置付けられたライヴ・エイドであろうか。1985年7月13日に開かれた歴史上最大のチャリティー・コンサートとされる音楽イヴェントだ。ライヴ・エイドが開かれるに至った経緯として重要だったのが、すべての端緒となるバンド・エイド、そしてUSA・フォー・アフリカという、ふたつのプロジェクトである。

1984年10月23日にイギリスBBCが放映したドキュメンタリー・リポート番組でエチオピアの危機的な飢餓状況を知ったのが、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフだった。チャリティー・レコードの制作を思い立った彼は、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロに連絡し、ほぼ1ヶ月後となる11月25日にロンドンにて錚々たる顔ぶれによるレコーディングが行なわれる。カルチャー・クラブ、ワム!、デュラン・デュラン、U2、スパンダー・バレエといった当時の人気グループのメンバーが大挙参加したバンド・エイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」は、瞬く間に全英第1位に輝き、世界的な注目を集めた。この動きに呼応したのが50年代の「バナナ・ボート」などで知られるアメリカを代表するベテラン黒人スター=ハリー・ベラフォンテだった。社会活動にも熱心なベラフォンテが提唱者/発起人となり、協力を仰いだ人物がいる。ケニー・ロジャースの80年のヒット「レイディー」のプロデュースを依頼したことで親交を深めたライオネル・リッチー(当時はコモドアーズのメンバーでもあった)が、ロジャースの紹介でソロ活動のマネージメントを任せたのがケン・クレイガンだった。ロジャースの面倒もみていたクレイガンは、つまり音楽業界の実力者だった。彼がベラフォンテからの相談を受けて、バンド・エイドにひけをとらない大物たちの参加を想定したとき、制作を仕切れるプロデューサーはおそらくただひとりだったはず。それがクインシー・ジョーンズだ。ここまでの流れで作詞作曲はライオネル・リッチーと、ジョーンズ制作の『スリラー』でセールス記録を書き換え続けていたマイケル・ジャクソンに託され、完成した曲が「ウィ・アー・ザ・ワールド」であり、企画意図に賛同し参加を表明したスターたちも次々に決まっていく。プロジェクト名は、もちろんアメリカ合衆国を意味し、同時に“UNITED SUPPORT OF THE ARTISTS”でもあったという“USA”・フォー・アフリカとなった。

1985年1月28日、ポップ・ミュージック史における金字塔となるヒット曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」が録音
1985年1月28日、ポップ・ミュージック史における金字塔となるヒット曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」が録音
録音に参加した面々を後に流布した公式集合写真の前列から列挙すると、ポール・サイモン、キム・カーンズ、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、スティーヴィー・ワンダー、クインシー・ジョーンズ、スモーキー・ロビンソン、レイ・チャールズ、シーラ・E、ランディ・ジャクソン、ラトーヤ・ジャクソン、ベット・ミドラー、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエル、シンディ・ローパー、ブルース・スプリングスティーン、ウィリー・ネルソン、ジェイムス・イングラム、ボブ・ディラン、ルース・ポインター、マーロン・ジャクソン、ティト・ジャクソン、ジャッキー・ジャクソン、ダリル・ホール、ディオンヌ・ワーウィック、アル・ジャロウ、ケニー・ロジャース、ジョン・オーツ、ヒューイ・ルイス、ジョニー・コーラ(ザ・ニュース)、アニタ・ポインター、ビル・ギブソン(ザ・ニュース)、クリス・ヘイズ(ザ・ニュース)、ライオネル・リッチー、スティーヴ・ペリー、ケニー・ロギンス、ジェフリー・オズボーン、リンジー・バッキンガム、ダン・エイクロイド、ハリー・ベラフォンテ、ボブ・ゲルドフ、ショーン・ホッパー(ザ・ニュース)、マリオ・シポリナ(ザ・ニュース)、そして写真には写らなかったジューン・ポインターとウェイロン・ジェニングス。
以上、総勢45名となる。

1985年1月28日、ポップ・ミュージック史における金字塔となるヒット曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」が録音
1985年3月7日にアメリカ発売となった「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、3月23日付で第21位に初登場すると4月13日付から4週にわたり全米No.1を独走する大ヒットとなり、4月5日のグリニッジ標準時15時50分に世界8,000ものラジオ局が同時に放送するといった協力体制もあって地球規模で爆発的セールスを記録する。こうして世界を巻き込んだチャリティー・ムーヴメントの大きなうねりは、およそ3ヶ月後のライヴ・エイドに結びついていく土壌のひとつを築いた。

これほどのビッグ・スターが大挙して参加し得たのには、絶妙なタイミングがあった。グラミー賞と並ぶアメリカ音楽業界のビッグ・イヴェント=アメリカン・ミュージック・アワードは、2004年からは毎年11月に発表されているが、それまではグラミー直前の1月半ばから終わりであり、開催場所はロサンゼルスのシュライン・オーディトリウム。前年大活躍した面々が集まるチャンスとして、これ以上のものはなかったはずだ。その夜、セレモニーのTV中継後、彼らの多くはハリウッドのA&Mスタジオに移動し、午後9時から本格的な録音が開始される。USA・フォー・アフリカの「ウィ・アー・ザ・ワールド」という、80年代のポップ・ミュージック史における金字塔となるヒット曲が収録されたのが、1985年1月28日であった。

バンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」USA・フォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」ジャケット撮影協力:鈴木啓之

【著者】矢口清治( やぐち・きよはる):ディスク・ジョッキー。1959年群馬生まれ。78年『全米トップ40』への出演をきっかけにラジオ業界入り。これまで『Music Today』、『GOOD MORNING YOKOHAMA』、『MUSIC GUMBO』、『ミュージック・プラザ』、『全米トップ40 THE 80'S』などを担当。またCD『僕たちの洋楽ヒット』の監修などを行なっている。
1985年1月28日、ポップ・ミュージック史における金字塔となるヒット曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」が録音

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