ギターを弾くこと、音楽を作ること、そして生きていくことの意味を常に自問自答しながら創作に挑んだ求道者・井上堯之。

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昨年5月2日の突然の訃報から、早いものでもうすぐ1年を迎えようとしている今日3月15日は井上堯之の誕生日である。1941年3月15日、兵庫県神戸市に生まれた井上堯之は、2歳の時に父親がニューギニアで戦死。終戦を迎えた4歳から母親の再婚相手の実家で育てられる。

中学時代に進駐軍のラジオ放送から流れるリッキー・ネルソンやエルヴィス・プレスリーなど米国のポップス・ヒットに興味を持ち、兵庫県立星陵高校2年生の時に友人からギターを譲り受けたことがきっかけとなり、アマチュア・バンドを結成。神戸国際会館で行なわれた赤木圭一郎の新作映画の舞台挨拶イベントに前座出演したのがステージ・デビューとなった。

高校卒業後は神戸市内のデパートの食堂に就職したものの、夜は風俗系サロンのハウスバンドのメンバーとして演奏活動を続けた後、ロカビリー系バンドをいくつか転々としながらジャズ喫茶に出演するようになる。

1962年、一念発起して上京した彼は、結成間もない田辺昭知とザ・スパイダースにシンガーとして加入する。当時のスパイダースは、リーダーの田辺がロカビリー全盛期に活躍した精鋭たちを集めて結成したラウンジ・ジャズ系バンドで、のちにGS時代のメンバーとなるのは、まだ田辺と堯之(当時の表記は孝之)だけだった。

その後、ホリプロがスパイダースなど所属バンドの歌手3人を集めて「スリー・ジェット」という、映画『ウエスト・サイド物語』を意識した歌って踊るユニットを企画。堯之もメンバーに選抜されるが、先発のジャニーズの人気には及ばず、結局レコード・デビューもできぬまま解散となった。

1964年、ビートルズの全米制覇によって音楽シーンに大きな変化が訪れると、スパイダースも時流に乗るべくメンバーチェンジによる大改造が行なわれ、堯之はリード・ギターに “配置換え”。本格的なプロ・ギタリストとしてのキャリアがスタートする。

マージー・ビート・スタイルのバンドに生まれ変わったスパイダースは、65年5月に「フリフリ」でレコード・デビュー。翌66年9月に「夕陽が泣いている」の大ヒットで、一躍人気グループへとブレイク。以後「太陽の翼」「風が泣いている」「あの時君は若かった」「真珠の涙」等のヒットを連発して、同時代に鎬を削ったライバルでもあるブルー・コメッツと共にGS黄金時代を築いていったが、GSブーム終焉期の70年12月に解散する。

ギターを弾くこと、音楽を作ること、そして生きていくことの意味を常に自問自答しながら創作に挑んだ求道者・井上堯之。
堯之は、盟友・大野克夫(kbd)、元ザ・タイガースの沢田研二(vo)、岸部修三(現・一徳/b)、元テンプターズの萩原健一(vo)、大口広司(ds)と共にPYGを結成。自ら作曲した「花・太陽・雨」(71年/作詞:岸部修三)でデビューするが、反商業主義の風潮が強かった当時の日本のロック・ファンたちからは不評を買い、結局PYGは短命に終わる。

ギターを弾くこと、音楽を作ること、そして生きていくことの意味を常に自問自答しながら創作に挑んだ求道者・井上堯之。
しかし、ソロ活動に入ったジュリーとショーケンを除くメンバーたちで「井上堯之バンド」として演奏活動を継続し、沢田研二のバッキングや、『太陽にほえろ!』(72年)、『寺内貫太郎一家』(74年)、『傷だらけの天使』(74年)、『悪魔のようなあいつ』(75年)などTVドラマの“劇伴”を手がけたことにより、その名は広く一般に認知されていった。

ギターを弾くこと、音楽を作ること、そして生きていくことの意味を常に自問自答しながら創作に挑んだ求道者・井上堯之。
ギターを弾くこと、音楽を作ること、そして生きていくことの意味を常に自問自答しながら創作に挑んだ求道者・井上堯之。
バンドの活動と並行して、作曲家・編曲家としても活躍。特に『青春の蹉跌』(74年)、『雨のアムステルダム』(75年)、『アフリカの光』(75年)といった萩原健一の主演映画の劇中音楽では、PYG時代の盟友ショーケンを音楽面から支える名パートナーシップを発揮。そのショーケンもカヴァーした近藤真彦への提供曲「愚か者」(87年)は、第29回『日本レコード大賞』に輝き、音楽を手がけた映画『火宅の人』(86年)では日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞を獲得している。

80年に井上堯之バンド解散後は、ソロもしくは宇崎竜童の「RUコネクションwith 井上堯之」(93年)や、スパイダース時代の仲間である堺正章、ムッシュかまやつと結成した「ソン・フィルトル」(99年)など、ユニットでのライヴ活動を展開。ソン・フィルトルではスパイダース時代には叶えられなかったNHK『紅白歌合戦』出場を果たしている。また、映画『カーテンコール』(05年)、日中合作映画『呉清源〜極みの棋譜〜』(06年)では俳優として出演するなど、活動の幅も拡げていった。

そんな矢先の2009年1月6日、公式サイトにて現役活動からの引退を表明。元来、音楽やギターをとことん極めようとするタイプ故の音楽活動への不満と肺気腫に罹患したことが引退の理由だった。同年1月から北海道小樽市に転住して現地のリハビリテーション施設にボランティアとして勤務する傍ら、その施設周辺で無料のソロ・ライヴも行なっていたが、2010年に東京に戻り療養を続けながら、年に数回マイペースな演奏活動を続けていた。

音楽活動再開後は、仏教書を読み漁りながら、ギターを弾くこと、音楽を作ること、そして生きていくことの意味を常に自問自答しながら創作に挑むという、まさに求道者のような生活を続け、2016年4月には久々の新録アルバム『The Guitar』をリリースした。翌2017年5月2日、2カ月前に逝去したムッシュかまやつのお別れ会のステージで、スパイダースの残されたメンバーたちと共に「フリフリ」「バン・バン・バン」「あの時君は若かった」等を演奏したが、これが公の場における井上堯之の最後の姿となってしまった…。2018年5月2日永眠。享年77歳であった。

ギターを弾くこと、音楽を作ること、そして生きていくことの意味を常に自問自答しながら創作に挑んだ求道者・井上堯之。
ザ・スパイダース「フリフリ」PYG「花・太陽・雨」ジャケット撮影協力:鈴木啓之

【著者】中村俊夫(なかむら・としお):1954年東京都生まれ。音楽企画制作者/音楽著述家。駒澤大学経営学部卒。音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。共著に『みんなGSが好きだった』(主婦と生活社)、『ミカのチャンス・ミーティング』(宝島社)、『日本ロック大系』(白夜書房)、『歌謡曲だよ、人生は』(シンコー・ミュージック)など。最新著は『エッジィな男 ムッシュかまやつ』(リットーミュージック)。
ギターを弾くこと、音楽を作ること、そして生きていくことの意味を常に自問自答しながら創作に挑んだ求道者・井上堯之。

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