話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、ガン闘病から復帰、6月9日の日本ハム戦でサヨナラヒットを打った阪神タイガース・原口文仁選手のエピソードを取り上げる。
「みんな、ただいまー!」
お立ち台からそのひと声が発せられた瞬間、甲子園のスタンドから沸き上がった大歓声。涙をぬぐう人たちも大勢いました。9回2死から飛び出した、日本ハム戦3連敗を阻止する劇的なサヨナラヒット。しかも打ったのは、今年(2019年)1月に大腸ガンの手術を受け、6月4日に1軍復帰したばかりの、代打の切り札・原口だったからです。
「多くの人に、ほんとに感謝の気持ちでいっぱいです! こうやって最高の場面で起用していただいてね、ほんとに有り難い気持ちと、期待に応えたいという思いでいつもやっているので、きょうはそういう日になってよかったなと思います」
ヒーローインタビューで、原口が何度も繰り返したのが「皆さんのお陰」という言葉です。昨年(2018年)末に受けた人間ドックで、大腸ガンが判明。1月24日にツイッターを開設し、自ら「手術を受けます」と公表した際は、球界に衝撃が走りましたが、Web上には「ガンなんかに負けるな!」「“必死のグッチ”でがんばれ!」という激励の言葉があふれました。
この“必死のグッチ”とは、矢野監督が現役時代によく使っていた“必死のパッチ”という関西ではおなじみの言葉に、原口の愛称“グッチ”を掛け合わせたもの。昨年暮れのファンイベントで、原口の新キャッチフレーズに決まりましたが、ガン公表後は、闘病中の本人を励ます言葉になりました。
1月末に受けた手術は無事成功し、3月7日、2軍に初合流。このとき「お立ち台に上がって、“やりたいこと”もあるので……」と、新しいパフォーマンスを前ふりしていた原口ですが、その日が最高の形でやって来ました。
お立ち台で「必死のグッチ」と書かれたタオルを両手で掲げると、ファンと声を合わせて、
「スリー! ツー! ワンッ! 必死の、グッチー!!」
と絶叫した原口。甲子園は再び、割れんばかりの大歓声に包まれました。
昨季最下位に沈んだ阪神が、下馬評を覆して今季Aクラスで健闘している1つの理由は、終盤の粘り腰です。サヨナラ勝ちはすでに、今季12球団最多の6度目。原口のサヨナラ打は、若手も中堅もベテランも“必死のパッチ”で、全員一丸となって勝利を目指す矢野イズムが浸透して来た証しでもあるのです。
「メチャメチャ感動しました。泣くのは優勝するまでとっておこうと思っていたのに……」
と、試合後の監督インタビューでも、興奮冷めやらなかった矢野監督。感極まって、何度も声を詰まらせ、いったん別室に下がるシーンもあったほど。指揮官は原口だけでなく、ドラマのお膳立てをした選手たちへの賞賛も忘れませんでした。
「俊(高山)が出て、北條がつないで、最後、原口が決める。自分自身、こみ上げてくるものがありました」
同点の9回2死から、高山・北條が連打。2人とも昨季はファームで苦しんでいた選手で、その姿を、2軍監督だった矢野監督は見ていました。それだけに、余計涙をこらえきれなくなったのでしょう。そして、もう1人讃えた選手が、正捕手の梅野でした。
「きょうは原口がヒーローですけれど、その前の、梅野がサードに走った盗塁。あの場面で走る勇気が、本当にすごい!」
7回、高山の遊ゴロで1点差に迫り、なおも1死二塁の場面。バッター・北條の3球目、二塁ランナーの梅野が、宮西のモーションを盗み、完璧なスタート! 意表を突かれた捕手・清水が慌てて三塁に送球しましたが、これが悪送球となり、梅野は生還。阪神は同点に追い付いたのです。
この三盗、失敗したら一瞬でチャンスが消滅するだけに、これはベンチの指示ではなく、梅野自身の判断です。宮西の首の上げ下げを見て、絶対に牽制をして来ないと確信した上でのスタート。キャッチャーらしい観察力を活かした、みごとなスチールでした。
矢野監督が就任以来掲げている「超積極的」を地で行くこのプレー。仮に失敗しても、挑戦した勇気を讃え、成功すれば選手以上に喜んでくれる指揮官は、選手の心も、ファンの心もしっかりつかんでいるのです。