【大人のMusic Calendar】
今から55年前の1964年、橋幸夫と吉田正(作曲家)、佐伯孝夫(作詞家)のチームは新しいジャンルの歌謡曲を開拓する。それが本日8月5日に発売された「恋をするなら」から始まる、エレキギターを大きくフィーチャーしたリズム歌謡路線。
つい「これはベンチャーズの影響で」と理解してしまいそうになるが、ベンチャーズが本格的に来日することでエレキブームを巻き起こすのは翌1965年のこと。その大阪でのコンサートを体験した京都の遊び仲間が(後にザ・タイガースとなる)エレキバンドを始める等々、全国の若者たちに多大なる衝撃を与え、日本のポピュラー音楽の革新的な転換期となったのだが、もちろん当時バンドとして最高潮だったベンチャーズを目の当たりにすることが「起爆剤」になったのは間違いないにしても、ロック夜明け前だった日本で「エレキの大爆発」が急激に起こり得るためには、すでに膨大な量の「爆薬」が全国の隅々まで行き渡っている必要があったのではないだろうか。
ベンチャーズもデビューは1960年、当時「急がば廻れ」は全米2位の大ヒットを記録しており、実は1962年には来日もしていたのだが(パッケージ・ショーにメンバー2人だけが参加した形だが)、日本での注目度は低かった。かのビートルズも1964年早々に日本でレコード発売、同年8月(ちょうど今頃)には映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Day's Night)』も公開されて話題になっていたにしても、当時は主に女性中心のミーハー的な対象だったようであり(1965年の音楽誌でも「若さと動きではビートルズ、テクニックではベンチャーズ、というのが大方の評判といえるでしょう」とか書かれていたし)、やはり前述の「爆薬」として第一に指摘し得るのは日本でだけシングル化されたアストロノウツのエレキインスト曲「太陽の彼方に」が1964年4月に発売されてブレイク、さらに夏に向けて藤本好一と田川譲二による日本語カヴァーで広く知られたことであろうか(何より「ノッテケノッテケ」の日本語詞が秀逸! 日本でのベンチャーズ奏法の「テケテケ」呼称もココからの連想?)。また、以前のロカビリーの延長線上の洋楽カヴァー集とはいえ内田裕也と尾藤イサオのアルバム、その名も『ロック、サーフィン、ホット・ロッド』も同年10月にリリースされたが、この演奏も担当した寺内タケシとブルージーンズやジャッキー吉川とブルー・コメッツらプロのエレキバンドの奮闘努力も大都市あたりでは注目されていたかな。
が、それより何より、洋楽に刺激されたにしても単なる後追いではない新しいオリジナル歌謡曲をお茶の間にまで届けようとして橋チームが1964年の夏以降に3連打した(もっとも同年に橋がシングル15枚をリリースした内の3曲だが)「恋をするなら」「ゼッケンNo.1スタートだ」「チェッ チェッ チェッ」の大ヒットこそは、その10月に開催された国家的ビッグイベント・東京オリンピックを見るためにTVも各家庭に行き渡った状況下、特に全国放送するNHKの歌番組を通じて日本列島の津々浦々まで埋め尽くす「爆薬」になったはず、というのが私の見立てなのですね。
まだオリコンが無い時代のヒットチャート資料は業界内のソンタクなどを差し引いて考える必要はあるにしても、芸能ファン誌『平凡』『明星』で1963年から71年のチャート発表期間中、連続4か月に渡り月間1位を獲得したのは「恋をするなら」だけらしい(さらに11月リリースの「チェッ チェッ チェッ」は連続3か月1位、ということは1964年夏から翌年初頭までのトップは橋のリズム歌謡が独占?)。
当時9歳だった私はTVではオリンピック中継を見た記憶がかすかにある程度だが、洋楽一辺倒で当時FENを熱心に聴いていたような年上の従兄に話を聞くと、「恋をするなら」はTVでよく見たなあ、とのこと。当然ながら同年末のNHK『紅白歌合戦』でも歌われたから、一般的にも認知度はかなり高かったはず。
同曲のドラム・パターンは数々のベンチャーズ演奏曲と同じにしても今ではユルく聴こえる感はあり、むしろそれこそが日本のお茶の間でも受け入れられた理由であろうかとも思われたりするのだが、いやいや、エレキ後進国だった当時の日本人には英国の女王陛下がセックス・ピストルズを聴いたほどの強烈なインパクトだったかも(笑)。サウンドは一応サーフィン系にしても歌詞は海とは関係無い男女の熱い恋模様で、「A A A、I I I」を橋はローマ字で歌うからOKだったが、これを松尾和子とかが平仮名で歌ったならば即放送禁止だったりして。
次いで翌9月にリリースされた「ゼッケンNo.1スタートだ」の方が先に作られていたとの話もあるが、海ネタのサーフィンと併行していた車ネタのホット・ロッドとはいえ、これは何とまあ本格的レーシング・カーの世界が舞台で、後にも先にも例が無さそうな大胆さ。ちなみに、すでにオートバイ・レースでは世界を制覇していた我がホンダが4輪のF1に初参戦したのは前月、8月のドイツGPだったので、そのニュースが意識されていたのかも。この歌の如き勢いで、ホンダは翌1965年10月のメキシコGPで早くも初優勝の快挙を達成することになる。ふんだんに挿入される高速回転エンジンの爆音がシフトチェンジで変化するあたりも興奮モノだが、演奏ではギターの低音弦を16分音符のトレモロで、しかしベンチャーズのようにテケテケ(グリスダウン)は一切しないままに最初から最後まで途切れること無く弾き続けるアレンジもスゴイ。
同年11月発売の「チェッ チェッ チェッ」は、リズム歌謡路線中で最もベンチャーズ的なエレキ・コンボ・スタイルの演奏が聴けるが、1965年~67年の地方でのエレキ高校生ライフを活き活きと描いた芦原すなおの直木賞受賞小説『青春デンデケデケデケ』および大林宜彦監督による映画化では、洋楽志向だから全く興味無かった同曲や三田明「美しい十代」などを、よんどころない事情によりバンド演奏することになった主人公が「≪チェッ チェッ チェッ≫だけはやっていて妙に楽しかった」と述懐しているのもウレシイ。
その後で興味深いのは、翌1965年には一気に活況を呈した影響で世にはテケテケするエレキ8ビート歌謡が溢れ出すのに反して、同年から年に1作のみの夏物商品となった橋のリズム歌謡「あの娘と僕 スイム・スイム・スイム」「恋と涙の太陽」「恋のメキシカン・ロック」では、複雑なリズムのラテン系などに目を向けた独自路線にシフトしたこと。さらにはビートルズなどの代替えとして画一化された感もあるグループサウンズが台頭して来ると「リズム歌謡路線はオシマイ」と、あっさり後進に道を譲った。
橋と吉田・佐伯のチームは歌謡界の王者的存在であったにもかかわらず、常に「開拓者」のスタンスと心意気だったと思わせる。
とすれば、私が着目したいのは、その終了宣言後にリリースされた2曲の股旅歌謡。
以前の得意分野への回帰のようでもアレンジは8ビートのロック・スタイルで、オーケストラを排したコンボ演奏による「佐久の鯉太郎」(1967年10月)。および、オーケストラはあっても硬質なギラギラしたエレクトリックな印象の「鯉名の銀平」(1969年1月)、ここで大きくフィーチャーされているのはエレキ・シタールか(ベンチャーズも同年末に録音した「京都の恋」で大いにエレキ・シタールを使っていましたが)。
ちょうど同時期の米国では、ひねくれ者ボブ・ディランの導きもあって、ザ・カメレオンズじゃなくてザ・バーズが当初のフォーク・ロックからサイケデリック・ロックに変身した後で今度はカントリー・ロック化(その分野での最重要アルバム『ロデオの恋人』は1968年8月リリース)。何だかバンジョーと三味線は似てるし、カントリーも股旅物も詞の世界は「Hobo Song」だったり「Outlaw Blues」だったりと同じようなもんだし、この橋の股旅歌謡2曲こそは当時の欧米ロックとタメを張る日本オリジナルのカントリー・ロックなのだ~と、私は妄想する次第。
さて、最後にご注目いただきたいのは、昨2018年にリリースされた「サンシャイン」。これこそは甦ったリズム歌謡!
ロックンロール・リフと言うよりもELPが演奏する「ピーター・ガンのテーマ」みたいな重厚ながら軽快なリフ(ドラムスはカール・パーマーよりはコージー・パウエルっぽいが)、さりげなくピンポイントで挿入される何処かで聴いたオールディーズ風コーラス、そして「Yeah!」と、笑っちゃうくらいカンペキ。作曲・アレンジは井上ヨシマサ。楽しいよ♪
橋幸夫「恋をするなら」「ゼッケンNo.1スタートだ」「チェッ チェッ チェッ」「あの娘と僕 スイム・スイム・スイム」「恋と涙の太陽」「恋のメキシカン・ロック」「佐久の鯉太郎」ベンチャーズ「急がば廻れ」アストロノウツ「太陽の彼方に」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
【著者】小野善太郎(おの・ぜんたろう):高校生の時に映画『イージー・ライダー』と出逢って多大な影響を受け、大学卒業後オートバイ会社に就職。その後、映画館「大井武蔵野館」支配人を閉館まで務める。現在は中古レコード店「えとせとらレコード」店主(実店舗は2020年の東京オリンピック後に閉店予定)。 著書に『橋幸夫歌謡魂』(橋幸夫と共著)、『日本カルト映画全集 夢野久作の少女地獄』(小沼勝監督らと共著)がある 。