ニッポン放送「八木亜希子LOVE&MELODY」(毎週土曜日8時30分~10時50分)の番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【東京新聞プレゼンツ10時のグッとストーリー】
今年、作詞家生活50周年を迎えた、日本を代表するヒットメーカー・松本隆さん。さまざまな作曲家とコンビを組むなかで、300を超える楽曲を作り、ヒット曲をいくつも世に送り出したパートナーが、去年亡くなられた筒美京平さんでした。
ロックバンド出身の松本さんは、9歳年上で、世代もバックグラウンドもまったく違う京平さんとどうやって出逢い、一緒に仕事をするようになったんでしょうか?2人がゴールデンコンビとなるきっかけを作ったアーティストとは……?
1970年、21歳のときに、ロックバンド「はっぴいえんど」のドラマー兼作詞担当としてデビューした松本隆さん。はっぴいえんどは、当時ロックのリズムに馴染まないと言われた日本語でオリジナル曲を創り上げ、のちの日本の音楽シーンに大きな影響を与えましたが、1972年に解散。
ちょうどその頃、松本さんは子どもができ、家族を養っていくために「作詞家になろう」と決意します。レコード会社の友人たちに連絡し、「作詞の仕事があったら紹介してほしい」と頼んだ松本さん。1973年、松本さんが作詞したチューリップ「夏色のおもいで」はいきなりヒット。作詞家としての第一歩を記しました。当時、松本さんが「いずれ、一緒に仕事をしてみたい」と思っていたのが、歌謡界のヒットメーカー・筒美京平さんでした。
とはいえ、駆け出しの松本さんにはまったくツテもなく、「どうしたら接点ができるんだろう」と途方に暮れていたある日、なんと、京平さん本人から直接「会いたい」という連絡が入ります。さっそく、京平さんの仕事場のマンションに出向いた松本さん。京平さんは「夏色のおもいで」を「これこそヒット曲と言うんだよ。素晴らしい!」と褒めてくれました。実は京平さんも、従来の作詞家が書く詞に飽き足らないものを感じ、新しい才能を求めていたのです。
こうして、9歳上の京平さんとコンビを組むことになった松本さん。1974年、遠距離恋愛中の男女が交わす書簡を歌にした、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」。若者世代のリアルな恋愛を描き、1曲の中で太田さんが男女を演じ分けるという意欲的な作品ですが、ひとつ大きな問題がありました、歌詞が4番まであったのです。
松本さんの詞を見た京平さんは「長すぎる!これじゃ曲は付けられない」と書き直してもらおうとしましたが、携帯がなかった当時、松本さんと連絡が付かず、しぶしぶ曲を付けることに。しかし、それが吉と出ました。翌日「いい曲ができたよ!」と、嬉しそうに連絡してきた京平さん。男女の別れを歌った詞に、明るいポップな曲を付けたセンス、1コーラスの中に1つとして同じメロディがないことなど、京平さんの曲を聴いて、松本さんは「やっぱり、この人はすごいな」と唸りました。
世代も感性も違うけれど、「従来の歌謡曲とは違った新しいものを創ろう」という点では一致していた2人。どんな斬新な詞を書いても、予想を上回るクォリティで返してくれる京平さんを松本さんは尊敬。一方京平さんも、松本さんが書く詞に細かい注文は出さず、自由にやらせてくれたそうです。
「京平さんが仕事を受けてくれたら、それでもう僕の仕事は半分終わり。成功を保証されたようなものだったから」(2020年11月14日 朝日新聞インタビュー記事より)と言う松本さん。その後も2人で、数々のヒット曲を生み出していきました。
近年は一緒に曲を作っていなかった2人ですが、2014年、太田裕美さんのコンサートで松本さんは京平さんと久々に再会。そのあと一緒に食事をしたのが最後になりました。訃報を聞いて、すごく大きな喪失感を味わったという松本さん。特に印象に残る2人の作品としてよく挙げる曲があります。大人の恋愛を描き、太田さんにとっても転機になった「九月の雨」、京平さんは自分でアレンジも手掛けました。
松本さんは、京平さんとの作品作りについて、インタビューでこう語っています。(2020年11月14日 朝日新聞インタビュー記事より)「とにかくいいものを作りたい、という思いで一致していたんです」
「山で例えれば富士山。日本一の高さがありつつ、形が美しい。稜線(りょうせん)は緩やかで裾野が長くて広い。それが僕らの理想だった」
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