ゴールデンウィークをよりヒートアップさせた、昨日のJ1の浦和-鹿島戦。
ナショナルダービーと呼ばれるだけあって、スリリングでとてもおもしろいゲームでした。結果は鹿島が1点差を守り、浦和を完封しましたが、決勝ゴールを決めた金崎以上の存在感を示したのは、守備の要・昌子源(しょうじげん)でしょう。
「前で抜かれても、ぼくが止める。」
そんなセッターバックがいるから、攻撃陣も精いっぱいのプレーをする。鹿島は、本当にいいチームです。さて、昌子と書いてしょうじと読む。全国的にみても、かなり珍しい姓。兵庫・神戸市出身で父・力(つとむ)さんは現在、大学(姫路独協大)のサッカー部監督をつとめています。力さんは、昌子が誕生した際、「昌子家が勝ち残っていくため、息子が人生に勝ち残るため、源という名前をつけました。本当は、『みなもと』という読み方を考えましたが『しょうじ・みなもと』では、語呂がちょっと…。『げん』になった」と話しています。
お母さんは今でも、ママさんサッカーをしています。サッカー選手になるのは、必然だったのでしょう。
中学生になると、ガンバ大阪のジュニアユースへ。ポジションはフォワードでした。ところが、そこには、宇佐美貴史(アウクスブルク=ドイツ)、大森晃太郎(現神戸)というすごいライバルたちが存在。「レベルが違う」と痛感し、またひざの故障などがあって、中学3年の時クラブを退団。
「プレーをするのもやめよう」と考えていた矢先、両親から「環境を変えてみては」と、親元を離れ、鳥取の米子北高への進学をすすめられます。サッカーを続けてなど、何もいわずに送りだしたそうですが、バッグの中には、スパイクとトレーニングウエアが入っていました。再び、体内にやる気が満ちあふれてきたといいます。
しかし、高校2年で、フォワードからセンターバックへの転向を命じられました。
「いやだった。ディフェンスはつまらないと思ったし、ゴールを決められない。だけど、監督からは絶対、フォワードへは戻さないと、きつくいわれた。」
人生のターニングポイントでした。イヤイヤながらも、指示に従った昌子は高校3年でU-19の日本代表候補にまで成長。複数のJリーグクラブから、オファーを受けました。
その中で鹿島を選ぶ決め手になった言葉は
「アントラーズに来てもらうことは、我々の家族になるということです。それでお誘いしました。何の心配もありません。」
その昌子の名前が世界へ発信されたのが、昨年のクラブワールドカップ決勝戦。
レアルマドリードに敗れはしたものの、鹿島が大善戦。とりわけ光ったのは昌子、日本を代表するセンターバックに成長したのです。加えて、24歳の若さには似合わず、苦労を重ねただけに好人格として知られており、きのう、途中交代した小笠原が自ら、キャプテンマークを託したほど。
4月29日、J2徳島の馬渡和彰がボールボーイへの乱暴行為で、一発退場。
この事件はメディアに大きくとりあげられていますが、昌子に関係はありません。にもかかわらず、「リーグ全体で申し訳ないと思わないといけない。もし、あの中学生がサッカーをやめてしまったらどうするのでしょう」とコメントしました。おそらく、自身の中学時代を振り返り、黙ってはいられなかったのでしょう。
5月5日(金・祝) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」