本日8/14は山口冨士夫の命日。あれから4年が経つ【大人のMusic Calendar】

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8月14日は山口冨士夫の命日となる。あれからもう4年が経つ。JR福生駅前のタクシー乗り場で、勘違いによる事件に巻き込まれ、突き飛ばされ転倒。その際に頭を打ち脳挫傷となり、そのまま入院中の病院で死去した。あまりにも残念な、あまりにも無念な死であった。よりによって山口冨士夫が、よりによってそんな事件に巻き込まれ、何の落ち度もないのに亡くならなければいけないのか。運命の残酷さに誰もが涙したと思う。

思えば壮絶にロックを生き抜いた男であった。若くしてバンドを始め、瀬川洋らとモンスターズを結成。それがザ・ダイナマイツとしてレコード・デビューしたのはグループ・サウンズ最盛期の67年のこと。リード・ヴォーカルを務めた「トンネル天国」は、その歌声のワイルドさと相まって大ヒットとなった。当時のプロフィールをみると、「山口冨士夫(18才)ボーカル、リード・ギター、ミスター・ソウル。R&Bには欠かせないネバリの魅力とマジメ人間が売りもの。1948年8月10日イギリス生まれ」とある。最後の英国生まれというのは、プロダクションが勝手に加えた嘘っぱちだ。

本日8/14は山口冨士夫の命日。あれから4年が経つ【大人のMusic Calendar】

ザ・ダイナマイツはグループ・サウンズの器に収まるバンドではなかった。早い時期からアメリカで台頭してきたニュー・ロックへと関心を強めていく。その証拠となる貴重な音源が『Live At The "GO GO ACB" 1969』として発掘CD化されている。全曲洋楽のカヴァーで、ディープ・パープルやゼムのナンバーがあり、クリーム風に編曲された「スプーンフル」など、同時期の英米のロックと引けをとらない演奏を繰り広げている。中でもポール・バターフィールド・ブルース・バンドのアレンジを借りた「ウォーキング・ブルース」などは、すでにブルース・ギターのマナーを完璧に獲得している。

69年末にザ・ダイナマイツ解散。これでやっとプロダクションとの契約が切れ、晴れてロックの世界へ突入していくこととなるのだ。ここで、アメリカ帰りのチャー坊(柴田和志)と運命的な出逢いをする。ここから始まる村八分の伝説は、ご存じの方も多いかと思う。結局のところ村八分は、チャー坊の並はずれた感性と冨士夫のギター・テクニックに支えられ存在していたバンドだったと思う。ど派手な衣装や、奇天烈なステージング、外連味を最大の武器にがむしゃらにライヴを重ねていった。そのライヴでの底知れないほどの破壊力は、後に発掘された数多くのライヴ音源がしっかりと証明している。

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村八分の現役時代唯一の音源が73年の5月5日に京大西部講堂で録音された『ライブ村八分』(エレック)だ。後の証言からも判るように、これが彼らのベストではない。がしかし、解散直前の燃え尽きんとする瞬間をとらえたドキュメントとしては、やはり貴重な音源だといえる。

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村八分解散後の74年に、ソロ・アルバム『ひまつぶし』を発表する。ダイナマイツ時代にザ・バンドが好きであったり、ラヴィン・スプーンフルの曲なども演奏していたという、彼の幅広い音楽性が出たアルバムだ。同年4月に、名古屋市公会堂に山口冨士夫グループを率いて登場した。

筆者はこの日のライヴを体験している。このコンサートはブルース・フェスティヴァルの形式をとっており、ウエストロード・ブルース・バンド、上田正樹とサウス・トゥ・サウスなどが出演した。共にまだレコード・デビュー前ながらも、関西ブルース・ブームを代表するバンドとして、最も脂ののりきった時期であった。山口冨士夫グループであるが、村八分解散後はじめて人前で演奏するという事もあり、期待が渦巻いていた。ステージの中央近くにドラムスを中心にアンプの山がコの字型に組まれ、そこで演奏が始まった。轟音と観客の熱気とが異様な盛り上がりを見せる中、3曲だけ演奏しさっとステージを後にしたのが、強く印象に残っている。

本日8/14は山口冨士夫の命日。あれから4年が経つ【大人のMusic Calendar】

75年にはルイズ・ルイス加部とのツイン・ギター構成でリゾートを結成。70年代の末期には村八分の再結成に関わり、80年に入ってからは裸のラリーズに参加するなど、注目すべき行動が多かったが、どれも短期間で消滅してしまったのは残念でならない。

83年にセカンド・ソロ・アルバムを発表し、レコーディングに加わったメンバーを中心にタンブリングスを結成。86年にはシーナ&ロケッツにゲスト・ギタリストして招かれ、全国ツアーとアルバムの制作に参加し話題を呼んだ。ゲストといえば、88年のRCサクセションの問題作『COVERS』にも加わりギターを弾いている。

87年に村八分結成時のメンバーであった青木眞一、フールズの中島一徳らと4人組のティアドロップスを結成。このバンドは91年まで続くが、チコ・ヒゲや久保田麻琴をプロデュースに迎えるなど、ロックン・ロール一筋にアルバムを制作した。その後再びソロとなり、ルイズ・ルイス加部、元テンプターズの大口広司、元ハプニングス・フォーの篠原信彦らとレコーディング・セッションをおこない、92年に東芝EMIより『アトモスフィア I』、『アトモスフィア II』の2枚のアルバムを連続してリリースした。

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その後は体調を崩しライヴを休止していた時期もあるのだが、2008年の秋頃から活動を再開し、ライヴハウスやイヴェントに出演するようになった。その模様は、川口潤が監督したドキュメンタリー映画『山口冨士夫 皆殺しのバラード』の中でも一部観ることができる。そして山口冨士夫は2013年に、この世を去っていってしまった。映画の中で冨士夫自身が語っていた「神は悪戯が過ぎる」の言葉が、胸の奥底にまで染み渡ってくる。

【筆者】小川真一(おがわ・しんいち):音楽評論家。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、ギター・マガジン、アコースティック・ギター・マガジンなどの音楽専門誌に寄稿。『THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974』、『三浦光紀の仕事』など CDのライナーノーツ、監修、共著など多数あり。
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