本日、8月9日は70年代に一世を風靡した女子プロレスラー・タッグであるビューティ・ペアのジャッキー佐藤の命日にあたる。彼女は99年に胃がんのため41歳の若さでこの世を去った。
ジャッキー佐藤は75年に全日本女子プロレスに入門。同年4月27日にマキ上田戦でデビューし、76年2月24日に、そのマキ上田とビューティ・ペアを結成する。
プロレス団体は観客の存在を前提としたスポーツで、その立ち上げからテレビや興行との結びつきが強かった。ことに日本の女子プロレスは戦後すぐに進駐軍相手に始まったキャットファイト的なスタイルが源流で、当初はお色気を強調したものであった。幾多の変遷があった末に、70年代には不定期放送ながらフジテレビで「全日本女子プロレス中継」が始まっている。
スポーツライター須山浩継氏のブログによると、全女のテレビ中継はスポーツ部ではなく芸能部の制作で、中継の契約に、番組中に必ず歌を入れることが明記されていたという。この契約は、ビューティ・ペアの数年前に登場し、絶大な人気を博したマッハ文朱の存在が前提となっている。マッハ文朱は『スター誕生!』に応募し決戦大会まで進んだほど(同じ決戦大会に山口百恵がいたことは有名)で、最初から歌手志望だったが、歌手にはなれず、全女のスカウトでプロレス界に転向。美人でタレント性もある彼女はフジテレビのバック・アップで人気者となり、「花を咲かそう」で念願の歌手デビューも果たす。試合前にリングで歌を披露し、タレントとしての人気も獲得。全女の会場には若い男女のファンや子どもたちが増えた。
だが、マッハの突然の引退で、空白となった穴を埋めたのが、ビューティ・ペアの2人であった。前述の「歌の契約」が守られなければテレビ中継は打ち切られてしまう。そこで急遽2人が歌手デビューすることになったのである。
デビュー曲「かけめぐる青春」の発売は76年11月25日。もともと2人とも歌手志望ではないので、歌は稚拙で振り付けもぎこちない。マッハ目当ての若者や子どもたちもいなくなった会場で当初、2人の歌は不評だったが、77年に入ると状況が一転する。年間200回近くある全女の興行では、各地の会場で女子中高生の観客が目立ち始めたのだ。77年2月25日に横浜文化体育館で行われた、ビューティ・ペアとライバルのブラック・ペアの対戦では、会場に押し寄せた女子中高生たちの熱狂的な歓声が轟き、当人たちも全女の関係者たちも、予想もしていなかった人気の形に驚愕したという。マッハ人気の一時期を除き、女子プロレスはそれまで中年の男性客が中心で、ある種のお色気目当てなところがあったが、ビューティ・ペアのスポーティでアクティヴな試合がテレビ中継されることで、彼女たちに憧れるティーンの女子が会場に殺到したのだ。
彼女たちのデビュー曲「かけめぐる青春」は、作詞が石原信一、作・編曲があかのたちお。以降、6枚リリースされたシングルはすべてこのコンビが手がけている。新人アイドルのデビュー曲は基本、自己紹介的なものになるが、前サビで自分たちのグループ名を連呼するスタイルはまさに典型であり、前向きでひたむきな青春像は、戦う少女の魅力をそのまま伝えている。楽曲も「太陽がくれた季節」や「われら青春」などのいずみたく青春ソング路線を踏襲したかのような、明朗でわかりやすく無理のない曲調。「踏まれても」「汚れても」の後のメロディーの空白は、コールが入ることを想定しており、西城秀樹の「情熱の嵐」「激しい恋」あたりで始まったスタイル。実際、会場では「踏まれても(ジャッキー!)「汚れても(マキー!)」と熱烈なコールが起きた。Bメロの「あなたから私へ」で握手を交わすフリでは黄色い歓声が最高潮に達する。この熱量はGSの絶頂期に匹敵するものがあった。また、ファースト・プレスのジャケットは2人が野原にたたずむスナップだったが、セカンド・プレスではリング上のステージ衣裳に変えられ、尻上がりに人気が上昇していったことがわかる。
歌う際の衣装といい、両手を広げたポーズといい、彼女たちのルックスや人気のあり方は宝塚的でもあり、この時期に絶大な人気を博した池田理代子の漫画「ベルサイユのばら」に通じるものがあった。女子が女子に熱狂する姿がテレビ(のプロレス中継)を通してお茶の間に初めて伝わったのである。実際、77年8月に浅草国際劇場で行われたビューティ・ペア・ショーでは、ジャッキーが男役、マキがお姫様役によるベルばら風の劇も行われるなど、人気が沸騰してからは、作り手の側も「女子目線」を意識した芸能活動に力を入れるようになった。試合前のリングで歌う姿も、花道登場からリング・インまでがプロレスの見せ場の1つであることを考えれば、女子プロレスらしい華やかさの演出と受け止めていいだろう。
2作目の「真赤な青春」は、前サビのグループ名連呼は変わらずだが、メジャー・コードの夏らしく爽快な楽曲。彼女たちの主演映画『ビューティ・ペア 真赤な青春』の主題歌でもあった。この2作目からレコード音源にも「ジャッキー!」「マキー!」のコールが収録されるようになる。3作目の「バン・ババン」は戦いというテーマを外した応援ソング的な青春讃歌。ここまで歌詞に一切の恋愛要素がないのも彼女たちらしく、4作目「青春にバラはいらない」に至っては、バラの花のマイクを持って歌う宝塚的な演出で、「恋愛より戦い」を選択した女性の心情が歌われており、そういったところにも女子たちが共感するものがあった。解散宣言で注目度急上昇のキャンディーズ、大ブレイクしてミリオン連発となったピンク・レディーに続く第3の女性グループ・アイドルは意外なところから登場してきたのだ。
だが、2人は歌の仕事が嫌で仕方なかったと後に述懐している。そもそもがプロレスラーなので当然だが、歌っている最中も、ニコリともせず愛想も振りまかない、その姿がかえって人気を博したのだ。
79年2月27日、敗者引退というルールでジャッキー佐藤とマキ上田の2人はシングルで戦う。負けたマキは引退し、ビューティ・ペアの約3年の活動に終止符が打たれた。その後もジャッキーはプロレスラーとして活動、ソロ歌手としても「美しい決意」など3作のシングルを残している。81年に一度引退するが、86年の「ジャパン女子プロレス」の旗揚げに参加、最終的に88年3月20日の神取忍戦を最後に引退した。
ビューティ・ペアの爆発的な人気は、プロレスというスポーツとショービジネス要素が一体化した特殊な形態が生んだものであったが、その後全日本女子プロレスは、ゴールデン・ペアのナンシー久美を「夢見るナンシー」でソロ・デビューさせ、元アイドルのミミのプロレス転向(ミミ萩原)を経て、ビューティ・ペアを踏襲した長与千種とライオネス飛鳥のタッグ・チーム「クラッシュギャルズ」の成功で、再び黄金時代を築く。新興のジャパン女子プロレスからはアイドル顔負けの美人レスラー、キューティ鈴木が人気を博すなど、女子プロレスと芸能界の接点は、多様な形で広がっていった。
【筆者】馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。