2020年東京オリンピック開幕まで1,000日を切り、各競技、強化を目指してスタートしました。男子サッカーも有力なメダル候補です。代表監督に就任した森保監督が、昨日、会見を行いました。
長崎県長崎市で生まれ、サッカー選手、指導者の長い期間を広島で過ごしています。
「世界で2カ所しかない被爆地で、私は人生を平和な都市で過ごしてきた。オリンピックは平和の祭典。そういったメッセージを発信できれば幸いです」
と語った後、
「重責です。日本で行われるオリンピックは、さらなる結果を求められる。皆さまが喜んでくださるような結果を出せるように、全身全霊で向かっています」
と誓いました。
2012年J1広島の監督に就任し、3度のリーグ制覇を成し遂げています。しかし、今年7月4日、成績不振のために辞任。サッカー界に衝撃が走ったことは記憶に新しいところです。確かに表向きは辞任でしたが、実質はクビになったというのが真相のようです。クラブの強化部は続投を支持し、本人もこのままでは終わらないつもりだった。ただ、クラブのトップ側がそれを許さなかった、そうサッカー界では言われています。
その後はフリーに。Jリーグの複数クラブが水面下で、獲得競争を展開。引く手あまたの状況でした。FC東京などは、年俸1億円のオファーを出したとされています。そんな状況の中、最終的に本人が選んだのは、1億円はおろか、その半分にも満たないオリンピック代表監督でした。名より実をとったのです。「逆境の時こそ、人間の本心が出る」が持論。
長崎日大高から、知り合いの今西和男総監督がいた広島の前身、日本リーグのマツダへ入団します。当時は、プロではなく、サラリーマンをしながらサッカーをすることが当然。マツダ本社は高卒の採用枠が既に決まっていた。森保は評価が低く、子会社採用でした。そこから這い上がったのです。
1992年、外国人初の日本代表監督となったハンス・オフトが全くの無名だった森保を代表へ招集。それがきっかけとなり全国区の選手に。何しろ、名簿を発表した際、選手同士でも「もりやす」と読めなかったほどでした。ところが、オフトの申し子的な存在になり、守備的なミッドフィルダーとしてスポットを浴びる。中盤の底、ボランチの名称が日本中に定着させたのは、森保でした。
93年10月28日といえば、サッカーでは永遠に語り継がれる、ドーハの悲劇。その一員です。
「あんなに悲しいことは、2度とありません。私の人生のターニングポイント」。
指導者へ転じてからも、現役時代の経験が生かされている。監督について、
「絶対にやってはいけないことがある。ずっと白と言ってきたら、急に黒にしろ、とは言ってはいけない。そういう人をたくさん見てきました。ブレずにいきます」。
10月31日(火) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」