11月7日はカナダの詩人でありシンガー・ソングライター、レナード・コーエンの命日

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【大人のMusic Calendar】

2016年11月7日、暦の上では冬が始まる日、いわゆる立冬とされ、日暮れが早く感じられるようになる日でもあった。そんな日に、レナード・コーエンは旅立ったのだ。もう1年も経つのかと、時の速さを突きつけられながらも、この人らしい季節に旅立ったのかもしれないなと、確たる根拠があるわけでもないのに、いま思ったりもする。

悲報によれば、7日の深夜に倒れ、眠ったまま穏やかに息を引きとったとのことだった。その後、息子アダム・コーエンが、父親の生前の言いつけ通りにモントリオールのマウントロイヤル墓地に埋葬したという。故郷の両親のかたわらで、82才の生涯を終えたコーエンは、いま眠っている。

新作『ユー・ウォント・イット・ダーカー』を発表した直後だったから、驚いた。ただ、その新作を前にしたインタビューで、「死ぬ準備はできている」という発言が話題になったり、実際に体調を壊し、レコーディングを断念するところまで追い込まれたらしい。

それを、息子のアダムが思いとどまらせ、仕事復帰こそが回復への道だと、父親を医療用椅子に座らせてまで完成に導いたという。そうしたアダムの献身的な働きもあって、『ユー・ウォント・イット・ダーカー』は完成した。それも、老いや死というものへの覚悟のようなものが毅然と存在する、本当に感動的なアルバムに。

1934年、カナダのモントリオールの生まれ。最初の詩集『神話くらべ』を発表したのが1956年、22才のときだった。そもそもが、詩人、作家として創作活動に入り、カナダ各地の大学で詩を朗読したり、ギターを弾きながら歌い、旅をするようになった。いわゆるシンガー・ソングライターとして世に出るのは、1967年、『レナード・コーエンの唄』がデビュー作にあたる。

寄り道になるが、そこには、「さよならマリアンヌ」という曲があって、デヴィッド・リンドレーが当時組んでいたカレイドスコープが演奏している。カレイドスコープが、ニューヨークのクラブに出演した際、アンディ・ウォーホルらと一緒に居合わせたコーエンが、彼らの演奏を気に入って頼んだらしい。クレジットされていないので、このことをぼくが知ったのは、随分後になってからだ。

コーエンは、ニューヨークに出てデビューする前にギリシアのイドラ島に住んでいた時期がある。そのとき、一緒に暮らしていた女性がマリアンヌだ。そのマリアンヌも、彼が亡くなる3カ月後ほど前に旅立った。しかも、彼女の友人たちが、病床につく彼女を思ってコーエンに手紙を送ったところ、すぐにコーエンからの返事があり、そこには、「ぼくもすぐにきみのあとを追うよ」と記されていたという。

ジュディ・コリンズが取り上げ、彼の名を広めるきっかけとなった「スザンヌ」の他にも、「電線の鳥」、「フェイマス・ブルー・レインコート」、「チォルシー・ホテル#2」、「哀しみのダンス」、「テイク・ディス・ワルツ」、「ハレルヤ」等々の傑作を残した。彼自身の歌声で、それらが広く親しまれたかとなると疑わしいが、スティングからスザンヌ・ヴェガ、REM、トーリ・エイモス、エルトン・ジョン、ドン・ヘンリーまで、多くの人に歌いつがれた。彼の作品で最も知られる曲となると、「ハレルヤ」だろうが、これも、U2のボノ、ジョン・ケール、ジェフ・バックリィなどの快唱がある。

それでも、彼の歌声には誰一人としてかなわなかった。つぶやくような歌声だったが、悠然として、威厳があり、それでいて、夜の吐息とたわむれるような妖しさを引き寄せ、艶っぽく、俗っぽいところもあった。そしてなによりも、彼の歌は、夜と仲が良かった。夜が深まれば深まるほど、夜が重くなれば重くなるほど、夜が濃くなれば濃くなるほど、彼の歌声は、その響きに俄然魅惑を強め、神秘をまとった。

そして、その歌声に導かれるかのように、夜の闇をさまようのがぼくは大好きだった。悲報が届いてしばらくの間、彼の歌声を普段よりは頻繁に聴く夜が続いた。ぼくが住む家は、郊外にあり、窓からは、海が見える。夜の海を眺めながら、彼の歌声を聴く。スーパームーン、つまり、1年でもっとも大きく見える満月が近づき、彼の歌には明るすぎるようにも思えたが、そこには、ぼくと同じように、ひそかに海を漂う幾つもの小船が見えたような気がした。

【著者】天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
11月7日はカナダの詩人でありシンガー・ソングライター、レナード・コーエンの命日

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