夢だった局アナは「アナウンサー人生の第一章」

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3月26日(月)、ニッポン放送アナウンサーの新保友映がパーソナリティを務めるWebラジオ『新保友映のオールナイトニッポンi』が配信され、2003年の入社以来15年間務めてきたニッポン放送を今月末で退社する新保が、これまでの経歴を振り返るとともに今の思いを語った。

夢だった局アナは「アナウンサー人生の第一章」

先日放送された『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』の中で、2018年3月いっぱいで放送出演を終了し、5月末でニッポン放送を退社すると発表した新保。最後に思いを語る場として用意されたこの番組の中で、新保はまず、アナウンサーを志したきっかけと、ニッポン放送アナウンサーという仕事を辞めるに至った経緯について語り始めた。

広島で暮らしていた中学時代、フジテレビ八木亜希子アナに憧れてアナウンサーになりたいと強く思ったという新保だったが、しかしどうしたらなれるのかも分からず、その夢自体誰にも言えずに心に閉まっていたとのこと。

そんなとき、塾の先生に「何になりたいんだ?」と聞かれて初めて夢を打ち明けたところ、「だったら東京に出なさい。ここ(広島)にいるより、圧倒的になれる確率が違うから。」と助言をもらい、親にお願いして東京の大学に通わせてもらったのだという。

そうした甲斐あってニッポン放送に入社した新保は、現在アナウンサー歴15年の37歳。夢叶って辿り着いた“局アナ”という職業について、いろいろ悩んだ末に自ら退社を決断したという。

その理由としては、子供が休みの日には一緒に同じ時間を過ごしたいという思いが、一番強かったとのこと。子供が小さいうちは自分が子供と一緒にいられないことを我慢すればそれでよかったが、子供が大きくなってくると発表会や運動会を親が観にきてくれることの喜びを見出すようになってくるのだそうで、次第に自分がそこに行ってあげられないことへの罪悪感を感じるようになったと新保は語る。

その都度会社に対して休暇をもらうことはできるが、そうして自我を通すこともまた調整してくれる先輩方に悪いと考え、そうしたとき、子供のためというよりも自分の気持ちを消化するために、局アナを諦めることを決意したのだそうだ。

夢だった局アナは「アナウンサー人生の第一章」

新しい道を歩き始めることを決意した新保。番組では、『新保友映と○○』と題して、これまでのアナウンサー人生で新保とゆかりの深かった物事を、順番に振り返った。

まず新保が挙げたのは、『新保友映とフルート』。新保が入社して初めてのレギュラーの仕事となる、2003年から2004年に掛けて放送された報道ワイド番組『垣花正のニュースわかんない!?』の中継コーナーにて、新保が吹く“下手くそなフルート”が面白いと評判になったことがあったという。

当初、中継が決まったとき、スタッフに「何ができる?」と言われ、自身の得意とするピアノを挙げたという新保だったが、中継先でできるものということでそれほど得意ではないフルートをやることになったのだそう。新保が吹く「ピ~~!」という音がこのコーナーの名物となり、のちに番組が終了するまでの半年間続いたと語った。

続いて挙げたのは、『新保友映と野球』。今や野球がなければ生きていけないというくらい野球好きな新保だが、元々アナウンサーになる前はほとんど野球を知らず、ヤクルトスワローズが好きな父の影響で自身もスワローズファンではあったが、そこまでの興味はなかったという。

そんな中、『ニッポン放送ショウアップナイター』や『板東英二のバンバンストライク』などの野球番組を担当することになり、そこから勉強を始めて球場に出向き取材をする中で、スワローズの選手やスタッフたちと接するようになって、ますますスワローズにどっぷりハマったのだそうだ。今では、サンケイスポーツが出している新聞『丸ごとスワローズ』にコラムを連載するほどのスワローズファンとなっている。

続いて挙げたのは、『新保友映とオールナイトニッポン』。2010年から2011年まで『新保友映のオールナイトニッポンGOLD』を担当していた新保。話を受けたときはすごく嬉しかったが、どうしていいか分からず迷っていたところ、「リスナーと音楽を繋ぐ役目でいい。」と担当ディレクターに言われ、全国から届いたお便りを紹介しながらたくさんの音楽を掛けたという。

また、『小栗旬のオールナイトニッポン』では、クイズを出す子供の役で、番組の演出として小栗に対して悪態をつく場面もあり、ファンに怒られるのでは?と心配したそうだが、毎年GW恒例のイベント『ラジオパーク』にて小栗のファンに会った際、ファンから「新保さん、もっとやってください!」と言われ嬉しかったことを明かした。

続く『新保友映とミュージックソン』では、毎年クリスマス期間に24時間掛けて行われる、目の不自由な方が安心して街を歩けるように音の出る信号機を設置する基金を募るチャリティ・キャンペーン『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』のアシスタントを務めたときの話を語った。

全部で4回アシスタントを担当したそうだが、入社1年目でイルカのアシスタントをした際は、交通情報を伝えるのにも慣れていない状況だったそう。リスナーと電話を繋いでいろいろな話を聴いていく中で、リスナーとの距離の近さや深さを実感し、すごく大切なものをもらえた番組だという。ニッポン放送で仕事が出来ているというアイデンティティにも繋がるとのことで、「ニッポン放送を退社すると、これができなくなるのが一番寂しい。」と新保は涙ながらに語った。

最後に挙げたのは『新保友映とアシスタント』。アシスタントがすごく好きだという新保は、これまでに、板東英二、三宅裕司、萩本欽一、志村けんなどいろいろなパーソナリティのアシスタントを務めてきたといい、そうしていく中でパーソナリティたちの仕事に対する姿勢を目の前で学ぶことができて、本当に貴重な時間だったと話した。

『新保友映と○○』というテーマで、自らの思い出深いエピソードを話した新保は、最後に“新保友映にとってのアナウンサー”というテーマで、現在の思いを語った。

夢だった局アナは「アナウンサー人生の第一章」

『一言で語るのは難しいなとは思うんですが・・・“繋ぐ人”かな。聴いてくださっている人とこのスタジオの中、あとはいわゆる世の中で起こっている出来事とか、そういったものを繋ぐ役目だなと思っていて。

これはラジオだからっていうのもあると思うんですけど、やっぱり震災のときとかに実感したこともあって。私、入社2年目で新潟の中越地震、そして東日本大震災と、その2つを経験していて、両方ともスタジオの中で、いろいろとお伝えするって役目をやったんですけど、特に一番最初に経験した中越地震のとき。

私、父が新潟出身なんですよ。で、親戚やいとこが新潟にたくさんいて。長岡なんですけどね。東京もそのときすごく揺れて、状況を伝えなきゃいけないってなったときに、「誰か新潟に知り合いがいる人いないのか?」って話になったんですよ。

土曜日だったので社内も人がとても少なくて、そのときに「私、親戚がいます。」って言ったら、「じゃあ連絡とって状況を聞いてくれ。そして出来ることならば、その人に喋ってほしい。」って言われて。

でも大変な中で、家の中ぐちゃぐちゃで車の中で過ごさなきゃいけないってなっていて、いくら自分の親戚とはいえ、そんな大変な状況の中なのに、東京にいる私たちがさらに大変な思いをさせていいのか?って、その瞬間すごい葛藤があったんですね。

だけどある放送作家さんから、「多分、今とっても辛いと思うけど、でも聴いてくれている関東の人に、現地が安全なのか大変な状況なのか、上京してきてる人や親戚とか聴いてくれている人はいっぱいいて、それを伝えるのもラジオの役目なんだ。覚悟してやれ。」って言われたんですね。

本当は絶対起こってほしくないんですけど、ラジオって震災のときに一番頼りにしていただきたいメディアであって。そこで働くことっていうのが、そういうところで役に立つんだなって思ったときに、繋ぐって大事なことなんだなってすごく思ったんですよね。』

人と人とを繋ぐアナウンサーという仕事に誇りを持ち、15年間続けてきたという新保。局アナとしての仕事は3月で終了するが、アナウンサーの仕事はまだまだ続けていくとのことで、最後に新保は、「これからも皆さんと繋がっていけると嬉しいなと思いますので、これからもよろしくお願いします。」と明るく意気込みを語った。

Webラジオ『新保友映のオールナイトニッポンi』は期間限定で無料で聴くことが出来る。

<番組概要>
番組名:新保友映のオールナイトニッポンi
パーソナリティ:新保友映(ニッポン放送アナウンサー)
番組URL:https://i.allnightnippon.com/p/e_anni_tomoe_001

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