1965年8月15日、ザ・ビートルズがシェイ・スタジアムでコンサートを行う

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ドでかい会場に5万人を超える観客が集まり、そこで人気バンドがコンサートを行なう。日本も海外も、毎日とは言わないまでも、日常化しているスタジアム・ライヴのあり方だ。それを半世紀以上前に最初に実現させたのがザ・ビートルズだった。

1964年の夏に続いて2度目となる北米ツアーの初日(65年8月15日)、ニューヨークのシェイ・スタジアム(昔はシェア・スタジアム表記)で行なわれたコンサートは、ビートルズの歴史だけでなく、ライヴ史にも残る“一大事”となった。

シングルがヒットし、アルバムが出て、主演映画が制作され、世界中でツアーを行なう。64年以降ビートルズはそうして「エルヴィスを超える」存在になっていったが、ビートルズがライヴ・バンドとしての頂点を極めたのがシェイ・スタジアム公演だったというのは、誰もが認めるところだろう。

まさにアイドルとしての頂点、ここに極まれり、である。だが、その半面、規模が大きくなればなるほど、あちこちにひずみも生まれる。効率よくコンサートを行なうために、一度にたくさん収容できる大きい会場が選ばれるようになり、まともに演奏を聴かないファンに向かって、彼ら自身も聴き取ることのできない曲を演奏するという状態が徐々に続くようになっていたのだ。

「誰も演奏なんか聴いていないんだよ。まるで暴動だった。ショウじゃない。ステージから降りると、まるで戦闘地帯をくぐり抜けたような状態になっていることが多いんだ。まさに戦争だと思うよ。いつも何かをぶつけられながら歌い続けたり、微笑み続けたりするなんて無理な話だ」(ジョン)

65年の北米ツアーを仕切ったのは、64年2月の初のアメリカ公演の際にビートルズの売り出しに貢献したシド・バーンスタインだった。収容人員のなるべく多い会場を選び、入場料も安くすれば、一度のコンサートで多くのファンを集めることができるし、公演回数を減らすこともできる。ファンの暴動を食い止めるためにも、ビートルズとファンとの距離を離す必要もあった。そう助言したバーンスタインに対し、マネージャーのブライアン・エプスタインは、最初は頑なに拒否したという。会場が広すぎて、空席に戸惑う「ボーイズ」を見たくないという理由からだ。しかし、「もし空席が出たら自分がその分を買い取る」と伝えたバーンスタインの言葉を信じ 、エプスタインはシェイ・スタジアム公演を承諾したそうだ。また、いわゆる「レイン・チェック」の項目も加えたという。8月15日のコンサートが雨で中止になったら、予備日の翌16日に振替公演を行なうという契約だ。

こうして北米ツアーは8月15日から31日まで行なわれたが、その初日となるシェイ・スタジアム公演に、観客動員記録が生まれるほどのファンが詰めかけたというのだから、アメリカのファンがビートルズの登場をどれほど待ち詫びていたかがわかる。だが実際の会場の様子は、映画『EIGHT DAYS A WEEK』でエルヴィス・コステロが語っていたように、米粒のようなビートルズを観ながら、拡声器のような騒音で4人の演奏を聴くという惨憺たる状況だった。もはや「その場にいっしょにいること」以外は、いわば「お祭り騒ぎ」のような雰囲気でもあったのだろう。

1965年8月15日、ザ・ビートルズがシェイ・スタジアムでコンサートを行う
とはいえ、普通に音も演奏も楽しめる映像を観てみると、特にジョンとポールのノリがすごい。まるでこれが最後のコンサートででもあるかのような迫力なのだ。特に「ディジー・ミス・リジー」のジョンや、最後の「アイム・ダウン」のポールの表情や動きを見ると、二人の“熱量”がじかに伝わってくるかのようだ。

そして、祭りのあとの寂しさが4人にもやって来る。もはや「誰のために・何のために」やっているのかわからなくなるほど混沌とした状況でのステージを体験したビートルズは、ライヴでの“次なるステージ”を望むような意欲は持ち合わせていなかったのだ。「音楽でできる最大限の楽しみ」がスタジオでのレコーディング作業へと移行していったのは、ある意味必然でもあった。

【著者】藤本国彦(ふじもと・くにひこ):『ビートルズ・ストーリー』編集長。主な編著は『ビートルズ213曲全ガイド 増補改訂新版』『GET BACK...NAKED』『ビートル・アローン』『ビートルズ語辞典』『ビートルズは何を歌っているのか?』『ビートルズはここで生まれた』など。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめ ビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。
1965年8月15日、ザ・ビートルズがシェイ・スタジアムでコンサートを行う

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