【大人のMusic Calendar】
1966年、ジェフ・ベックが在籍していたヤードバーズからベーシストのポール・サミュエル・スミスが脱退、当時引っ張りだこの売れっ子スタジオ・ミュージシャンであったジミー・ペイジに加入を打診した。ジミーは元々エリック・クラプトンの後任として誘われたことがあったがスタジオの仕事が多忙でなんと断ってしまい、友人であるジェフ・ベックを紹介した張本人である。しかし今度はジミーもバッキングの仕事をやりながらも自身の音楽的方向性やテクニック、プロデューサーとしての才能を身につけ、ジェフ加入で人気バンドに成長したヤードバーズの要請を承諾。
当初ベーシストとして参加であったとされるが、ジミーのギター・プレイを封印せずクリス・ドレヤとベースとギターをスイッチ、ジェフとジミーという最強のツイン・リード・ギター・バンドとなった。しかしジェフが体調の悪化でツアーをキャンセルすることが多かったこともあってか、数曲のスタジオ録音と映画『欲望』の出演と数少ないライヴ・ツアーでジェフは脱退。4人編成でヤードバーズは再スタートすることになる。
ジミーの音楽性はここで花開く。アルバム『リトル・ゲームス』やシングル曲の半数以上は、ヒット・シングルにしか興味のないプロデューサー、ミッキー・モストに指示されたポップ・ソングであったが、「ドリンキング・マディ・ウォーター」や「ホワイト・サマー」等で明らかにレッド・ツェッペリンの基礎となるサウンドを完成。特にジミーの許諾なしに発売された『LIVE YARDBIRDS featuring JIMMY PAGE』(発売後すぐ回収、2018年、ジミーによってリミックスされ再発売)ではポップな面は排除され、完全にゼップのプロト・タイプと呼べるサウンドが形成されている。「アイム・コンフューズド」は「幻惑されて」そのもの、弓を使ったプレイやリード・ギターはファースト・アルバムと比べても引けを取らない出来である。しかし音楽性の違いもありキース・レルフとジム・マッカーティが一緒にニュー・バンド「トゥゲザー」(後に「ルネッサンス」となる)結成のため脱退、クリスもフォトグラファーを目指し脱退した(レッド・ツェッペリンのファーストの裏ジャケットは彼の撮影)。しかしながらヤードバーズの技量ではジミーの思い描いたサウンドが作れなかったことはゼップの結成で明白となり、それはブルース・ハード・ロック・バンドとしての力量である。
68年7月にニュー・ヤードバーズとして最終公演を行う前提でメンバーを探すこととなる。最初に決定したのがスタジオ・ミュージシャン仲間のジョン・ポール・ジョーンズ、そしてヴォーカルはスティーヴ・マリオット等と共に候補となったテリー・リードの紹介でロバート・プラントが決定、そしてロバートが以前在籍していたバンド・オブ・ジョイのメンバーでティム・ローズのバンドにいたジョン・ボーナムを引き抜き結成。短期間のリハをロンドンで行い、10月に北欧ツアーを行い、バンド名はジェフ・ベックの「ベックのボレロ」のレコーディング・メンバーのバンド名として、キース・ムーンのアイディアからレッド・ツェッペリンと改名。11月にはファースト・アルバムをグリン・ジョンズ、エディ・クレイマーという有能なエンジニアを起用しレコーディング、たった30時間という超スピード・レコーディングはツアーのホットなテンションをそっくり再現した素晴らしい内容となった。
マネージャーのピーター・グラントはこのテープをアトランティックに持っていき、当時としては破格の20万ドルという契約金で68年11月30日に契約を交わした。アトランティックのこの判断を下したのはアーメット・アーティガン、2007年のトリビュート・ライヴで再結成したほどの恩人でもあり音楽業界の偉大なプロデューサーだ。
アルバムは早々に69年1月に米国、3月に英国で発売、注目は一挙に集まった。短いツアーを行い6月にはもう『Ⅱ』のレコーディングに突入、ツアーの合間を縫ってレコーディング、10月にはリリースという信じられないスピードだった。「胸いっぱいの愛を」が世界的ヒットとなり、名実共に世界のトップ・グループの仲間入りを果たし、ゼップ旋風の快進撃が始まった。
【著者】佐藤晃彦 / JEFF SATO(さとう・あきひこ):1955年10月13日生まれ、78~00年までワーナー・ミュージックとユニバーサル・ビクターで、主に洋楽・邦楽ディレクターとしてジャクソン・ブラウン、モトリー・クルー、ラウドネス、渡辺貞夫、松岡直也、憂歌団、喜多郎、hide/pata (X Japan)、Zeppet Store等を担当、独立後(有)ジェフズ・ミュージックを設立、音楽制作、インディーズ・音楽著作権管理、大学・専門学校講師、おやじバンド・イヴェント企画、音楽ライター、CDレコード・ショップ運営等を行う。