【大人のMusic Calendar】
沢田研二にとって1974年は画期的な年となった。
完全に井上バンドの音だけで制作された「恋は邪魔もの」(作詞安井かずみ・作曲加瀬邦彦)が発売されたのはその年の3月21日だった。実は70年代のヒット・シングルで、完全に井上尭之バンドの音だけで制作された彼のA面楽曲はそう多くはない。前年、彼をスターダムに乗せた「危険なふたり」もロック仕立ての演奏であるが、演奏はスタジオミュージシャンであった。
この74年という時期…井上バンドにはギターに速水清司が加わり、ドラムは原田祐臣から田中清司に、ベースはサリーこと岸部修三(現・一徳)、そしてキーボード大野克夫。井上バンドの充実の音が出来上がった頃である。このシングルを契機に、沢田研二はその後の自分のスタンスを「井上尭之バンドのヴォーカリスト」に置いた感がある。タイガース、PYG、そしてソロデビューと辿って来た彼の中には絶えずバンド願望があり、プロデューサー加瀬さんはそれを見越し、さらに当時のフルバンドやスタジオミュージシャンによるレコードサウンドではなく、生のバンド演奏による新たなる日本のロックスター作りを目指したと思う。
こうして「恋は邪魔もの」はジャケットも井上堯之バンドの写真を散らばせ、バンド色を前面に押し出し、大野克夫中心の編曲によりリフを使ったロック調に仕上がった。「危険なふたり」と「追憶」の大ヒットの狭間で世間の知るような大ヒット曲とは決してならなかったが、彼の華々しい音楽史の中で「恋は邪魔もの」は画期的なシングルだったと思う。
この時、彼こと沢田研二26才、私は28才、私は彼のマネージャーになった。
当時、渡辺プロダクションには歌謡曲班、ドラマ班、ロックポップ班というのがあった。
私は歌謡曲班のマネージャーだったが、コンサート営業の都度、フルバンド用に持ち歩く重たい楽譜に閉口していたのだが、ある日ロック班のプロデューサーに呼ばれ帝国ホテルのロビーに行くと、そこには内田裕也さんがいた。そして今度の沢田研二のマネージャーに任命された者ですと紹介された。私はコチコチに固まった。
それからコンサート最中のジュリーに挨拶に行ったのだが、帰り道「一緒に乗りませんか?」と言われて自家用車に乗り込み、そのまま初対面のその日、朝まで二人で飲んだのを覚えている。「ああ、遂にロックバンドのマネージャーだ、これで重い譜面からも解放された!」と思ったものだ。
この頃、すでにジュリーの衣装デザイナーには早川タケジ君がいたが、この「恋は邪魔もの」の頃にジュリーが穿いていた膝の破れたジーンズ、あれはジュリーのアイディアだったと思う。今やジーンズの破れファッションは大流行だが、ジュリーがその開祖ではないだろうか。40年前、破れたジーンズなど穿いていたのは彼だけだった。しかも彼は使い古したジーンズをもう一枚短パンのように切り、それを破れたジーンズの上に二重に穿くというファッションを考案している。
それで思い出すのは、まだ私が駆け出しの頃、田園コロシアムのタイガースコンサートの警備につかされた事があった。今やアミューズの会長である大里洋吉君なども一緒だった。その時ジュリーは楽屋で食べ終わった弁当箱の紐を取りだしたので、「どうするんですか?」と聞くと、「こうすると、ちょっと変化が出て面白いでしょう」と言ってそれを首と腕に巻きつけ、楽屋からステージに上がって行った。寡黙なのに面白い男だなという印象だった。後年、田コロのライブ映像を観ると「ハートブレイカー」などを歌う姿にそれが映っている。
さて、ジュリーは「恋は邪魔もの」を筆頭に「追憶」「カバー・オブ・ローリングストーン」などロック色の強い楽曲を引っさげてこの年、日本人初の全国縦断ロックツアーを試みた。加瀬さんが演出で私は演助になった。チケットは「恋は邪魔もの」のジャケットの水中眼鏡を形どった変形で、何トンもある楽器車のボディーにそれを描き、楽器車は楽器を下ろした後、会場正面に止めてファンの落書き自由とした。楽器車を動く宣伝カーに仕立てたのだ。
何もかも始まった感がある年だった。ツアーは日比谷の野音でスタートを切り、8月5日には福島県郡山市開成山公園内の総合陸上競技場で開かれたワンステップ・フェスティバルに飛び入り参加。なんと出演者は41組。デビューしたばかりのダウン・タウン・ブギウギ・バンド、上田正樹&サウス・トゥ・サウスにキャロル(ついこの前までジュリーのプロデューサーだった中井國二さんが引き連れていた)、それにデビュー前のシュガー・ベイブ、ロンドン帰りの加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンド、人気絶頂だった沢田研二ら、当時のロックバンドのほとんどが集結していたと言っても過言ではない伝説のロックフェスである。
青春真っ只中、そして、この年7月10日発売されたシングル「追憶」はツアー最中にNo.1を獲得、最大ヒット曲となった。まさに「恋は邪魔もの」はロックスター沢田研二の幕開けだった。
最後に余談だが私は当時生まれた自分の長男に「貴之」と命名した。「ウチのタカユキが」と言うと井上尭之さんは勿論、ジュリー、バンドメンバーに受けて、祝福されたものだ。
沢田研二「危険なふたり」「恋は邪魔もの」「追憶」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
【著者】大輪茂男(おおわ・しげお)演出家・音楽プロデューサー。渡辺プロ、ポニーキャニオンを経て独立。沢田研二、木の実ナナ、木之内みどり、石川ひとみ、根津甚八、ツイスト等ディレクターを経て、独立。ル・ギャング設立。佐藤隆、及川眠子、人間椅子、ALIPROJECT 等所属。沢田研二の(株)CO-COLO のプロデューサーに就任。現在は演劇・文学を志す若者を対象とした「大輪塾」を主催。