番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【10時のグッとストーリー】
今回はスペシャル企画「思わず胸キュン! 私の青春リクエスト」にちなみまして、リクエストの多かった小泉今日子さんの代表曲『あなたに会えてよかった』の創作秘話をご紹介します。
当時の担当ディレクターにお話を伺いました。この曲、作詞は小泉さん自身ですが、小泉さんはどうして自分で詞を書くようになったのでしょうか?「作詞家・小泉今日子」の誕生にも迫ってみました。
いまから28年前、1991年5月に発売された、小泉今日子さんの『あなたに会えてよかった』。この曲はミリオンセラーを記録。当時、女性アイドルが歌う曲がミリオンを達成したのは初めての快挙でした。
このとき小泉さんを担当していたビクターのディレクターが、田村充義さん。田村さんは、83年の第5弾シングル『まっ赤な女の子』から小泉さんの担当になり、以来25年間、レコーディングに関わって来ました。
「私はアイドルを担当するのは初めてで年も離れていましたし、それまでの担当者とはやり方が違うこともあって、最初の半年くらいは関係がギクシャクしていましたね」
その頃、テクノ系やニューウエーブ系のバンドを手掛けていた田村さんは、これまでの路線とはちょっと違うことをやろうと、最新機器やテクノサウンドをいち早く採り入れたり、小泉さんの歌う楽曲に新しい刺激的な要素をどんどん取り込んで行きました。
「ヒット曲が1つ出たら、2つくらいそれとは違うことをやらないと飽きられてしまいます。かわいいだけじゃ長続きしませんからね……」
当時のアイドル界で小泉さんは、松田聖子さん・中森明菜さんに次ぐ3番手のポジションにいました。「だから、いろんなことができたんです」と言う田村さん。どんどん新機軸を打ち出して行く田村さんに、小泉さんもだんだん心を開き、やがてうち解けるようになりました。
小泉さんが19歳になった1985年、田村さんはこんな提案をしました。「アルバム用の曲で、歌詞の付いていない曲があるんだけど……詞を書いてくれないかな?」
読書が大好きな小泉さん。この頃、番組でおススメの本を語ると、それがベストセラーになることがよくありました。田村さんは言います。
「彼女は、物事の見方が正確なんです。ドラマのここが面白かったとか、なぜ面白いのかをいつも分かりやすくスラスラッと語ってくれて。『あ、この人は詞が書けるな』と直感しました」
ところが当初、小泉さんは作詞するのを渋りました。プロの作詞家と並んで素人の自分が書いた作品が並ぶのは申し訳ない、という遠慮があったのです。しかし、どうしても小泉さんに詞を書いてほしかった田村さんは、小泉さんにこんな手紙を書きました。
「いままでは『これをやりなさい』という仕事をやっていればよかったかもしれないけれど、これからは自分で仕事の方向性を決めていかないと、立ち行かなくなる時代が来る。そういう意味でも、いま作詞にチャレンジしてほしいんだ」
「わかった」と作詞を了承した小泉さん。最初はペンネームを使い、自分が作詞したことを公表していませんでしたが、3年後、「そろそろいいかな」と本名で作詞をするようになりました。ちょうどその頃、小泉さんは『オールナイトニッポン』のパーソナリティを担当。トップアイドルが深夜にトークをするのは当時、異例のことでしたが、ここで様々なゲストを招き幅広いジャンルの曲を聴いたことで、小泉さんは内面的にも成長して行ったのです。
「私もよく、スタジオに同行していました。そこでよく次の企画が生まれたりしましたよ」
1991年、25歳になった小泉さんが作詞した『あなたに会えてよかった』。小泉さんの主演ドラマ『パパとなっちゃん』の主題歌で、結婚間近の娘と父親の関係を描いたドラマでしたが、実は当時、小泉さんのお父さんは体調を崩し、入院生活を送っていました。あの詞は、離れて暮らしていたお父さんを思い浮かべながら書かれていたのです。
「時が過ぎて 今 心から言える あなたに会えてよかったね きっと私」
田村さんは、このあとに続く最後の一行に「直し」を求めました。最終的に小泉さんが選んだ歌詞は、これまでに出逢ったかけがえのない人たちへの感謝の想いを伝える、こんなフレーズでした。
「世界で一番 素敵な恋をしたね」
『あなたに会えてよかった』はこの年、日本レコード大賞の作詩賞を受賞。現役アイドルが作詩賞を受賞したのは、これが初めてのことでした。
八木亜希子 LOVE&MELODY
FM93AM1242ニッポン放送 土曜 8:00-10:50
番組情報
あなたのリクエスト曲にお応えする2時間20分の生放送!
今、聴きたい曲を書いて送ってくださいね。