安全ピンをファッションに! なぜ日本のピンが海外で注目されたのか
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きょうは、父親が創業した安全ピンメーカーを受け継ぎ、海外向けの新商品を開発。会社を大きく発展させた2代目社長のグッとストーリーです。
富士山のふもと、駿河湾に面する静岡市・駿河区。ここに、デザイン豊かな安全ピンが海外で評判を呼んでいるメーカーがあります。安全ピン製造の「MATSUO(まつお)」。
従来の安全ピンはニッケルメッキで、よく曲がったり錆びたりしましたが、MATSUOでは針の部分を硬いステンレス製に、キャップの部分をプラスチック製に変えた「ロックピン」を開発。針の先端を7回に分けて磨き上げるのがMATSUOのこだわりです。
「こうすれば、針の先端が引っ掛かって服の生地を傷めることもありませんし、スムーズに抜き刺しができるんです」
そう語るのは、2代目社長の松尾憲次さん・68歳。
1965年、憲次さんのお父さんが「松尾製作所」を創立。品質の高さに目を付けたアメリカの業者から大量の注文があったことをきっかけに、早くから輸出に力を入れていました。当初はアメリカへの輸出が中心でしたが、円高が進むとアメリカからの注文はだんだん減って行き、2代目の憲次社長は新たな販売ルートの開拓を迫られます。
そんななか、90年代後半になって、意外な国から注文が入るようになりました。それは……インド。インドで女性が着る民族衣装・サリーは布1枚でできています。途中、何ヵ所もピンで留めて行く必要があり、質の高い「ロックピン」に目を付けたインドのバイヤーが声を掛けて来たのです。
「そうか、女性をターゲットにした安全ピンを作れば、きっと人気になるぞ!」と気付いた憲次さんは、プラスチックの部分を大きくして針の部分を完全に隠した、アクセサリー型の「ジュエルロックピン」や、ピンの先がバラや貝殻などの形になっている「ファッションピン」を開発。プラスチック部分が色とりどりに美しく加工された松尾製作所の安全ピンは、アクセサリーとしても使えると口コミでどんどん人気が広がり、輸出先は東南アジアや中東の国など10数ヵ国に増えました。
現在製造している安全ピンの8割が、海外向けになっています。創立50周年を迎えた4年前、社名を「松尾製作所」から、ローマ字の「MATSUO」に変更。これは海外のお客さんに向けての配慮です。
「小学生の頃から、社員に混じって安全ピン作りを手伝ってました」と言う憲次さん。高校を卒業するとすぐ、松尾製作所に入社。本当は憲次さんのお兄さんが跡を継ぐはずでしたが、配達中の交通事故で若くして亡くなったため、次男の憲次さんが跡を継ぐことになりました。
「でも私、40代になったとき、1度会社を飛び出してるんですよ」と言う憲次さん。取引先の樹脂加工メーカーから「うちに来てくれないか?」というオファーを受け、転職したのです。
「当時は、心のどこかで『安全ピンなんか……』と馬鹿にしていたんですね。新しい世界でもっと大きなことをやってやろう! という欲があったんです」
先代社長のお父さんからすれば、後継者をよそに取られてしまったことになりますが、何も言わず憲次さんを送り出してくれました。
「オヤジは無口で、口下手な人でしたが、いまにして思えば『よそで勉強してまた戻って来ればいい』ということだったんでしょうね……」
憲次さんは転職先の会社で樹脂加工のノウハウを一から学び、成果も上げましたが、3年後、松尾製作所に復帰。やはり家業のことが気になっていたのです。外で学んだ樹脂加工の知識は、アクセサリー型の安全ピンを作る際、大いに役立ちました。
ずっと独身を通していた憲次さんですが、50代で結婚。フィリピン出身のネリーザ夫人との間に6歳の女の子と、4歳の男の子をもうけました。英語が堪能でアジアの事情に詳しく、女性ユーザーの視点に立った意見が言えるネリーザさんは、MATSUOの海外戦略にいまや欠かせない存在になっています。
憲次さんは言います。「ゆくゆくはネリーザに社長を譲って、そのあと息子が会社を継いでくれたら嬉しいですね。息子が20歳になるまで現役でいられるよう頑張りますよ!」
八木亜希子 LOVE&MELODY
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