宇宙飛行士の“レジェンド” 若田光一さん 新天地へ!
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「報道部畑中デスクの独り言」(第365回)
ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、JAXAを退職し、新天地へ羽ばたく若田光一さんについて---
新年度が始まりました。新生活、あるいは新天地での活動を始めた人も多いと思います。東京のサクラの開花は平年より遅く3月29日。いまごろ満開になっているところもあるかもしれません。
新天地と言えば、この人、宇宙飛行士の若田光一さんも新たな道を踏み出しました。32年間務めてきたJAXA=宇宙航空研究開発機構を3月末で退職しました。
若田光一さんは現在60歳、日本航空のエンジニアから1992年、JAXAの前身の一つ、NASDA(宇宙開発事業団)の宇宙飛行士候補に転身、1996年にアメリカのスペースシャトルで初めての宇宙飛行、その後、2000年、2009年、2013年、2022年と、あわせて5回の宇宙飛行を経験しました。
1回目の1996年は人工衛星の回収・放出のためにロボットアームを操作しました。2000年の2回目には日本人で初めて国際宇宙ステーションの建設に参加、ロボットアームを操作し、ドッキングポートを取り付ける作業を行います。
2009年の3回目は日本人として初めて約4カ月にわたる長期滞在、日本の実験棟「きぼう」の船外プラットフォームの建設に携わりました。2013年の4回目はロシアのソユーズ宇宙船で飛行、日本人初めて国際宇宙ステーションの船長も務めます。そして5回目となる2022年、アメリカ・スペースXの宇宙船「クルードラゴン」に飛行し、約5カ月の滞在、自身として初めての船外活動に臨みました。新型太陽電池を設置するための土台の取り付けを担いました。若田さんが宇宙に滞在した時間は累計で504日18時間35分に上ります。
「ロボットアームの名手」「宇宙飛行士のレジェンド」といわれる若田さん、3月29日午後2時過ぎ、東京でサクラの開花が発表されたころ、若田さん門出の記者会見が開かれました。青のネクタイにダークスーツ姿で現れた若田さんは拍手で迎えられました。
「32年間あっという間だった。飛行安全、ミッションを成功させるという2つの大きな目標に向かって努力をしてきた日々だった」
また、退職後は民間の立場から、宇宙の分野に携わっていくことが明かされました。
「月・火星探査を含めて、各国政府が主導する有人宇宙活動の持続的な発展のためには、民間主導の地球低軌道での有人宇宙活動の成功がカギになる。民間セクターによる活動を盛り上げて、有人宇宙活動全体の持続的な発展に貢献できると考え、その先駆者の1人として仕事をしていきたいという想いに至った。可能な限り“現役宇宙飛行士”としての活動も続けていきたい」
会見では32年の宇宙飛行士生活の中で印象に残ったことも問われました。数えきれない出来事の中で絞り出したのは1996年の初飛行の時です。
「太陽が昇ってきた初めて見る地球の美しさ、大気層の薄さ、その瞬間は明らかに覚えている。最も印象的な瞬間だった」
「打ち上げや帰還に対する恐怖はなかったが、宇宙で何かミスをすることで発生するトラブル、自分の失敗に対する恐怖が一番大きかったと思う」
失敗することの怖さという「宇宙飛行士としてのプレッシャー」は並々ならぬものであったことがうかがえます。
若田さんは会見で宇宙飛行士の仕事は「生涯学生をやっているような印象」と話していました。膨大な勉強・試験を受けて宇宙飛行に臨み、帰還後には地上の担当業務、次のミッションに向けた勉強・試験を経て宇宙飛行に臨むというサイクルだったと言います。ある記者は会見について「文武両道あこがれの生徒会長の卒業式に臨む気分」と表現しましたが、なるほど言い得て妙だと思います。
ところで若田さんと言えば、宇宙へのフライトのたびに心がけていたのが「和」の心だったと思います。私はこの「和」について聞いてみました。
若田さんは具体的な行動として「ハーモニー(和)を維持するために、どんなに忙しい時でも夕食を一緒にするとか、ちょっとした短い時間であっても運動の時とかに声をかけてあげるとか、相手を思いやるという気持ちを大切にして宇宙でも生活をしてきた」と話しました。「万が一の緊急事態が起きた時、安全を維持して必要なミッションを達成していくために重要である」と…。さらに宇宙飛行士それぞれの出身国の祝日、誕生日を祝う時、地球から持ってきたおいしい宇宙食をプレゼントするなどコミュニケーションの機会をつくってきたそうです。
会見の冒頭で若田さんは様々な立場の人の名前を挙げ、感謝の言葉を述べていました。JAXA幹部は「本当に人をよく見ている」と若田さんを評していました。コメントを聞くと、俗な言い方になりますが、若田さんは本当に「マメ」な方だと感じます。エンジニアという専門的なスキルだけでなく、こうした細かな心遣いが若田さんの「人間力」「揺るがぬ軸」につながっているのではないかと改めて思いました。
さらに現役の宇宙飛行士として、今後の宇宙飛行にも意欲を見せます。
「6度目だけでなく、7度目でも8度目でも意欲はある。可能性があれば、私がこれまで経験できてなかったことに挑戦していきたい。私の夢は種子島から日本、世界の人たちを送り届けることができる有人機が打ち上がること。その観点からも、より民間が主体的に有人宇宙活動に参画することが、私の夢にもつながっていくと期待している」
若田さんの転身は、いわゆる「アラカン世代」の一つの生き方を提示するものになるかもしれません。
ちなみに私が宇宙担当の記者として、若田さんとのご縁を得たのは、ほぼ15年前、2009年の3回目のフライトの時。当時は「宇宙に行くこと、宇宙に長期滞在することがニュースとなる時代」でした。いまも宇宙旅行は誰でも行けるわけはありませんし、宇宙での生活は未知のことも少なくありませんが、「宇宙に何をするかが問われる」時代になっています。
おりしも内閣府では「宇宙技術戦略」が策定されました。これは今後の宇宙開発についての優先順位を定めたものです。優先度の高い技術として、宇宙ゴミの除去・低減に使う衛星の開発、月面有人探査車の実用化、有人宇宙旅行を含めた宇宙輸送能力の強化などが挙げられています。大学が企業に対し、今後10年間で総額1兆円規模の支援を目指す「宇宙戦略基金」も創設し、国内の宇宙ビジネスの活性化を目指します。
若田さんの転身は、日本の宇宙開発の裾野を民間に大きく広げていく、その後押しにもなると思います。そして、宇宙産業が自動車のように日本の産業をけん引していくことになるのか、これは国民の関心の高まりもカギを握ると思います。(了)
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