番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【10時のグッとストーリー】
きょうは、駄菓子屋さんでもおなじみのロングセラー「梅ジャム」を考案、戦後70年間、一人で作り続けた男性のグッとストーリーです。
戦後間もなく発売され、ミルクせんべいなどに塗って食べる「梅ジャム」。駄菓子の定番として長く愛されてきましたが、去年の暮れに生産を終了したことが伝わると、惜しむ声が殺到しました。この「梅ジャム」を考案し、終戦直後から70年間、東京・荒川区にある自宅兼工場でずっと生産を続けてきたのが、梅の花本舗社長・高林博文さん・87歳 です。
「さすがにこの年になると、体が言うことを聞かなくなって…70年で一区切り付けました」
14歳のときに終戦を迎えた高林さん。疎開先の富山から、生まれ育った荒川区に戻ってくると、空襲で家は焼け、バラックで作った家で、家族は細々と生活していました。高林さんのお父さんは薬を作る仕事をしていましたが、終戦直後は仕事がなく、高林さんは少しでも家計を助けようと、自転車で浦安まで魚を仕入れに行き、ヤミ市で売ったこともありました。「ぼうず、ショバ代払ったのか?」と額を蹴られ、血を流して家に帰ったことも。
そんなある日、父親の友人が家に来て「リンゴの粉が手に入るんだが、これで商売をしないか?」と持ちかけてきました。その話を横で聞いていた高林さんは、いいアイデアを思い付きました。
「それ、僕に売らせてくれませんか?」
高林さんはリンゴの粉を紙で包み、麦わらのストローを付けて、当時街なかに増えてきた紙芝居屋さんに卸すと、これが大当たり。そのうち、仲良くなった紙芝居屋さんから、こんな相談を受けました。
「ミルクせんべいに、ソースを塗って売ってるんだけど、他に塗るものってないかな?」
そこで高林さんが思い付いたのが、乾物屋さんで売られていた「梅肉」でした。見映えの悪い梅干の種を抜いた「くず梅」と呼ばれる梅肉を安く譲ってもらい、それでジャムを作ろうと考えたのです。そのままではしょっぱすぎるため、水を加え、甘味料や小麦粉を入れて、電気コンロで煮詰め、樽に入れて一晩かき回し、2、3日かけて冷ます……何度も材料の配分を変え、研究に研究を重ねて、昭和22年秋、ついに「梅ジャム」が完成。
「あの頃の子どもたちは、よく外で遊んでいたから、塩分が欲しくなるんです」 …「梅ジャム」は大ヒット。このとき、高林さんは16歳でした。
その後、世の中に娯楽が増えてくると、紙芝居は衰退していきましたが、代わって増えてきたのが駄菓子屋さんでした。時代の波を読むのがうまい高林さんは「梅ジャム」を小さな袋に詰めて、駄菓子屋さんに卸し、1個5円で売り始めるとこれも大ヒット。パッケージのデザインも高林さんが考えました。昭和40年代に一度だけ5円から10円に値上げしましたが、以後ずっと値段は据え置き。それは「梅ジャム」の製造を、高林さんがたった一人でやっていたからこそできたことでした。
仕入れた梅の状態や、季節によっても味が変わるため、必ず味見をして微調整。完成した梅ジャムを毎日、奥さんと一緒に袋詰めする日々を何十年も続けた高林さん。長年、充填機を踏み続けたため、ヒザと股関節を痛め、いまは人工関節が入っています。
「息子が二人いるんですが、一切、梅ジャムの仕事は手伝わせませんでした。私が自分で梅ジャムを生みだしたように『お前たちも自分の力で、道を切り拓け』と言ったんです」
そのため後継者はおらず、同じ味を維持するのは高林さんでないと不可能なため、「梅ジャム」はいま出回っている分を最後に、もう二度と味わうことはできなくなりました。
「『事業を譲ってほしい』という声をたくさんいただいたんですが、今のご時世では、とても採算が合わないと思います。70年間、精一杯やりましたし、悔いはありません」
高林さんに。この70年間で、忘れられない出来事を伺うと、目を潤ませながらこう語ってくれました。
「めったに褒めてくれなかった父が、亡くなる間際に、『お前はよくやった』と褒めてくれたことですね。あの言葉が、私の梅ジャム人生を支えてくれたんです」
八木亜希子 LOVE&MELODY
FM93AM1242ニッポン放送 土曜 8:00-10:50
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