元プロ卓球選手・四元奈生美~外国人選手として中国超級リーグに所属
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黒木瞳がパーソナリティを務める番組「あさナビ」(ニッポン放送)に、元プロ卓球選手でスポーツウェアデザイナーの四元奈生美が出演。プロ卓球選手として中国超級リーグに参加した経緯について語った。
黒木)今週のゲストは元プロ卓球選手でスポーツウェアデザイナーの四元奈生美さんです。卓球を始められたのが4歳のころということですが、きっかけはご両親ですか?
四元)そうですね。母と姉が先に始めていたので、私も物心ついたころには自然に始めていたという感じですね。
黒木)卓球一家だったのですか?
四元)はい。お父さん以外はみんな卓球をやっていました。お父さんだけが剣道です。
黒木)では、卓球をやられたのはお母さんの影響ですね。
四元)母は高校生のときに、3年間だけ卓球をやっていました。
黒木)3年間だけ。それで娘たちに教えたと。
四元)その後、姉を産んでしばらくしたら、家のポストに近くの小学校から卓球サークルの勧誘チラシが入っていて、久しぶりにそこで再開したのですね。それからは姉がやり、私がやりという感じです。
黒木)でもまさか次女がプロになるとは、お母さんは想像していらしたでしょうか?
四元)どうだったのでしょうね。母は私たちを教えるのに、世界チャンピオンの方などの講習会に行って、メモをとって姉と私に熱心に教えてくれました。
黒木)何歳くらいのときから頭角を現して来たのですか?
四元)小学校のころは卓球をやることが当たり前で、卓球場に行くのは自然なことでした。自分で始めたわけでもないので、毎日練習場に行って、「次はここで試合だよ」と言われると、「はい」ということの繰り返しでした。自分の意思で強くなりたいと思ったのは、高校3年生のときです。インターハイが終わった後くらいに、世界チャンピオンの方にお会いする機会があったのですが、その方のオーラがすごかったのですよ。扉を開けたら、空気が回っちゃうくらいオーラがあって、「卓球をやっていてこうなれるのだったら、自分も卓球をやる意味があるのかな」と感じて、更に頑張ろうと思えるようになりました。
黒木)そのころの日本の卓球界は、いまでこそTリーグなどいろいろありますけれど、そこまでメジャーではなかったのですよね。
四元)日本の卓球はメジャーではなかったですし、レベル的にも中国が圧倒的に強くて、日本はまだまだ届かないという感じでした。
黒木)そこで、プロ転向なさったときに、中国のチームを選ばれたのですか?
四元)そうですね。行けるチャンスがあれば、中国超級リーグという世界1のリーグに行ってみたい、出てみたいなという思いはありました。
黒木)どうでしたか?
四元)北京チームに入って、主力の選手がそのときの世界ランキング1位、3位、4位、6位と一桁の、本当にトップの人たちのなかへ混ぜていただいた感じでした。もちろん試合にも出られないし、朝の練習を一緒にやるのですが、その子たちは北京チームでありながら、普段は「国家隊」という中国の国家が運営している秘密訓練基地のようなものがあって、そこから試合ごとに来るのですね。
黒木)すごく練習をなさっていたのでしょうね。
四元)びっくりしましたね。
四元奈生美(よつもと・なおみ)/元プロ卓球選手・ウェアデザイナー
■1978年。東京都立川市出身。
■4歳から卓球を始め、数多くの大会で優勝。
■2001年4月、大学卒業と同時にプロに転向。
■2004年には中国超級リーグに参戦。北京チームに所属。北京チームの超級クラスでは外国人初の所属選手となり、総合優勝に貢献。
■2007年の全日本選手権で「誕生」をイメージしたユニフォームで出場。
■卓球を華やかなイメージにし、メジャーな競技にしたいという思いから、自らのウェアデザインを始める。「革命」「喜怒哀楽」「希望」等、様々なテーマで衣装デザインを手掛け大会に出場、卓球界のジャンヌ・ダルクと呼ばれる。
■2008年に全日本選手権・混合ダブルスで準優勝。
■2009年~2011年までは、自身のスキルアップの為、東京モード学園へ。2010年には、中国・広州で行われた国際卓球連盟主催プロツアー大会にて、自身のファッションショーを開催。
■2011年に結婚・出産後、2013年1月の全日本選手権に出場。
■2014年、自身のブランド「Final Winner」を立ち上げ、卓球ウェアなどのデザイン・プロデュースを手掛けている。
■現在はコメンテーター&スポーツウェアデザイナー、ママプレーヤーとして活動。
ENEOSプレゼンツ あさナビ(11月12日放送分より)
FM93AM1242 ニッポン放送 月-金 6:43-6:49
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毎朝、さまざまなジャンルのプロフェッショナルをお迎えして、朝の活力になるお話をうかがっていく「あさナビ」。ナビゲーター:黒木瞳