用具の開発によって障がい者のスポーツは可能性が広がっていくという夢がある。その輝く一瞬を撮り続けるカメラマンでありたい。 【清水一二(写真家)インタビュー】

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【ニッポンチャレンジドアスリート】
このコーナーは毎回一人の障がい者アスリート、チャレンジドアスリート、および障がい者アスリートを支える方にスポットをあて、スポーツに対する取り組み、苦労、喜びなどを語ります。

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清水一二(しみず・かずじ)

1954年横浜市生まれ、62歳。日本大学芸術学部写真学科卒業後、障がい者スポーツと出会い、日本人唯一の国際パラリンピック・メディアスタッフとして長野冬季大会、シドニー大会の撮影を行う。その後も30年以上にわたり障がい者スポーツの撮影を続け、国内外の選手や競技団体との関係も深い。

―清水一二、1954年横浜市生まれの62歳。大芸術学部写真学科を卒業後、障がい者スポーツと出会う。80年からフリーカメラマンとなり、日本人唯一の国際パラリンピック・メディアスタッフとして長野冬季大会、シドニー大会の撮影を行った。その後もライフワークとして30年以上にわたり、障がい者スポーツの撮影を続け、国内外の選手や国内外の選手や競技団体との関係も深い。大学卒業後、カナガワリハビリテーションセンターの中にあった写真室に勤務し、患者の写真を撮影していた清水。ある日偶然、運命の出会いがあった。

清水
 昼休みに体育館の前に買ったばかりの自分の車を置いて、カッコイイコマーシャルのような写真を撮ろうと思ったんです。写真を撮りにいったところ、体育館の中でバスケットボールの音が聞こえるんです。そこで、中にカメラを持って入ったら、私が勤めていた写真室によく出入りしている車いすの患者さんがバスケットボールをやっていたのです。

―清水はたちまちその躍動感のある動きに魅せられた。

清水 バスケットボールをやらないかと言われて、最初は立ってパスなどをしていたのですが、車いすが一つあるから乗ってみろと言われて、車いすに乗った瞬間にもう、こんな面白いものはないと思った。
それから車いすの操作の難しさと、バスケットを座ってシュートする時の力の入れ方とか、こんな面白い乗り物はないなあ、と思って写真を撮り始めたのが、障がい者のスポーツを撮るきっかけです。

―初めて取材したのが、オーストリアのインスブルックで開催された冬季パラリンピックだった。

清水 88年だったと思いますがインスブルックの大会に行ったのが初めてです。そこにはチェアースキー協会という協会から入館証を出してもらって、記録委員という形で入りました。スキーの世界というのは一本足のスキーの人しかいなかったんです。そこで片足スキーヤー以上に座って滑るソリスキーが世界中で大きな開発を迎えていて私たちが開発をしていた障がい者のスキーといものがこれから世界で使えるぞと思って、いろいろ大会競技に行くようになりました。

―こうして清水は障がい者スポーツの競技撮影がライフワークになっていく。フリーのカメラマンとしてパラ競技で初めて清水が衝撃を受けたのは夏季と冬季両方でパラリンピックのメダルを獲得したスイスの障がい者アスリート、ハインツ・フライだった。

清水 ハインツ・フライというスイスの選手がいるんです。その人が冬季の競技にも必ずクロスカントリー雪の上をスキーに乗ってストックだけで山を登ったり、下りたり。その選手が選手たちの憧れのような選手だったんです。メダルももちろん、たくさん獲っています。最初に観たのはリルハンメルの大会です。夏冬続けてすごい選手がいたというのは今でも覚えています。

―すべてのパラリンピックを撮影するのが目標という清水、ブラインドサッカーやゴールボールのように競技の特性上、シャッター音を鳴らせないものもあるが、撮影の方法は?

清水 シャター音に関しては実は私は土曜日、日曜日はほとんどピアノ発表会とかアマチュア合唱団の撮影をやっていて、舞台の隅っこでカメラに消音機をかぶせて長いレンズで撮る仕事をしています。その仕事の延長で消音機というのは皮専門店で皮を買って皮を二重に掛けて、真ん中にエアーマットというプチプチのやつを入れたものを自分で作ってやっています。

―実は陸上の場合、必ずいい表情が撮れるとっておきのポイントがあるという。

清水 車いすの陸上の選手は必ず自分のタイムを見ます。今、何周で何位で何秒で歩いているか、一番最後に必ず顔を上げる瞬間があります。それまでは下を向いていますが顔を上げてタイムを見た瞬間を狙って写真を撮るようにしています。こんなこと言うとみんながそこに来てしまうかもしれませんが(笑)。どんな選手でも自分のタイムを確認するために電光掲示板を見ますので、その瞬間を狙っています。

―清水は日本人カメラマンとして初めて国際パラリンピック・メディアスタッフの資格を受け、長野冬季大会、シドニー大会の撮影を行った。IPC国際パラリンピック委員会からの委託を受けて記録撮影をする仕事だが、そのきっかけは?

清水 長野パラリンピックが始まる時にパラリンピックのオフィシャルカメラマンにしてくれと言ったら、長野にある新聞社が公式新聞を出すから長野のパラリンピックではカメラマンは必要ないと言われてしまいました。そこで、国際パラリンピック委員会の会長が長野に来ていた時に自分で作品集とお願いの文章を英語で書いて、パラリンピック委員会に写真を提供するから私にライセンスをくださいとお願いをしました。お金は一切払わないが、パラリンピックのために夢を追いかけてくれるのであれば、オフィシャルカメラマンの許可を出してあげると会長が言ってくれました。

―オフィシャルではあるが、給料はなし。それでも、あえて自腹を切りパラリンピックを撮りに行った清水。それには理由があった。

清水 障がい者のスポーツというのはお金になる世界ではないんです。ただ、障がい者のスポーツは夢があって、選手の使っている用具が開発されてもっと重い障がいを持った人たちにもスポーツを楽しめるものが出てくるだろうと私は思っていました。そして、誰も彼らを撮っていないから、自分が撮って行こうと思い、長野以降はやっています。

―4年後、パラリンピックのホスト都市となる東京。カメラマンとして清水には今から提言したいことがある。

清水 長い間カメラマンをやっていると、夜、一人で街中に行くと車いすの人が酒を飲んでいたり、宴会をしていたりする。でもそれは選手ではないんです。「誰々さんを応援しに来た」という人たちなんです。そんな情景を見て、障がい者のスポーツというのは支えている人も障がいの人が多いんだなあということをよく思います。だから東京のパラリンピックにもたぶん世界中から東京の街を見たいとか、東京の街を観光したいという車いすの人が溢れると思うのです。そういうことをちゃんとこれから4年後に対応できるかどうかというところを評価されると思います。みんなが行ってよかったという街にしたいと思います。また、外国から来たカメラマンが右往左往しないようにコーディネートする仕事を組織委員会の中に入ってやってみたいです。

(2016年7月19日~7月22日放送分より)

ニッポンチャレンジドアスリート
ニッポン放送 毎週月曜~金曜 13:42~放送中
(月曜~木曜は「土屋礼央 レオなるど」内、金曜は「金曜ブラボー。」内)
番組ホームページでは、今回のインタビューの模様を音声でお聴き頂けます。

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