シリーズ最長1時間19分の猛抗議 プロ野球・上田利治氏(享年80歳) 【スポーツ人間模様】

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上田利治監督

プロ野球 日ハム-オリックス 東京ドームの最終戦で選手達に胴上げされる上田利治監督 1999年9月30日 写真提供:産経新聞社

監督時代、「ええで、ええで」でおなじみだった、上田利治さんが1日、肺炎のために川崎市内の病院で亡くなりました。1975年から日本シリーズ3連覇を果たすなど、球史に残る名将の1人。すぐれた洞察力に加えて、選手を「ええで」と褒め、良い面を引き出す。一方で、走者3塁でヒットアンドランを行うなど、知将でした。勝っておごらず、3連覇を達成時は、

「選手に神輿を担いでもらっただけ」

と少しも偉ぶらない。理想的なリーダーで、担当記者も大切にし、伝説を多くつくりあげました。

徳島県海部郡宍喰町(現海陽町)の出身。男子プロゴルフの尾崎3兄弟も同郷で、

「うちのいなかは、みんなが素直。上田さんをみればわかるだろう」

と、ジャンボが自慢げに語っていたことを思い出します。実家は地元の魚屋さんでしたが、おじさんに弁護士がいて、法律の道を歩むはずでした。野球は高校であきらめ、弁護士を目指し、関西大法学部へは一般入試で進学しました。

運命を変えたのは、村山実さんでした。いくらすごい投手でも、ボールを受けるキャッチャーがいなければ、宝の持ち腐れ。そこで上田さんに白羽の矢が立ち、バッテリーを組んで関西大学の黄金時代を築いたのです。卒業後は、広島へ入団しますが、肩の故障などがあり、25歳で史上最年少の専任コーチに。ただ、技術や理論を教えるのではなく、ものすごい読書家で、カーネギ―の「ひとを動かす」や、孫氏の兵法を取り入れて説明を行います。

結局、西本幸雄さんの野球を学んだことが、人生を左右しました。監督として、必ず出てくるエピソードは、巨人以来のV4を目指した78年の日本シリーズ。大杉勝男の本塁打判定を巡り、シリーズ最長の1時間19分という猛抗議を行いました。現在のようにVTR判定が導入されているわけではなく、一度下った判定が覆ることはなし。しかし、上田さんは線審の富沢さんを変更するよう、必死に抗議をしたそうです。

上田利治監督

プロ野球 日本シリーズ第7戦 ヤクルト対阪急 ヤクルト・大杉の本塁打のをめぐり阪急・上田利治監督(中央)が1時間19分にわたり猛抗議 1978年10月22日 写真提供:産経新聞社

それから、語り継がれるのは1976年、長嶋巨人と対戦した日本シリーズでしょう。第6戦でサヨナラ負けを喫して、流れは一気に巨人へ。ここで上田さんは試合後、全選手、スタッフを集めてミーティングを行った。

「みんな、シュン太郎や。マージャン、銀座へ行くのもいい。明日午前9時にしっかりと集合や」

と。また、

「新聞や、テレビを一切見るな」

と、念を押して気分転換を図りました。王者阪急の野球は一晩で、蘇ったのです。

ところが、これには、落ちがあって、先発した足立は監督の指示を無視して、

「新聞もテレビも見た」。

125球の完投は意地の投球だったのです。人気のセ、実力のパという言葉が盛んに使われたのも、上田さんの時代でした。ご冥福をお祈りいたします。

7月3日(月) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」

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