監督時代、「ええで、ええで」でおなじみだった、上田利治さんが1日、肺炎のために川崎市内の病院で亡くなりました。1975年から日本シリーズ3連覇を果たすなど、球史に残る名将の1人。すぐれた洞察力に加えて、選手を「ええで」と褒め、良い面を引き出す。一方で、走者3塁でヒットアンドランを行うなど、知将でした。勝っておごらず、3連覇を達成時は、
「選手に神輿を担いでもらっただけ」
と少しも偉ぶらない。理想的なリーダーで、担当記者も大切にし、伝説を多くつくりあげました。
徳島県海部郡宍喰町(現海陽町)の出身。男子プロゴルフの尾崎3兄弟も同郷で、
「うちのいなかは、みんなが素直。上田さんをみればわかるだろう」
と、ジャンボが自慢げに語っていたことを思い出します。実家は地元の魚屋さんでしたが、おじさんに弁護士がいて、法律の道を歩むはずでした。野球は高校であきらめ、弁護士を目指し、関西大法学部へは一般入試で進学しました。
運命を変えたのは、村山実さんでした。いくらすごい投手でも、ボールを受けるキャッチャーがいなければ、宝の持ち腐れ。そこで上田さんに白羽の矢が立ち、バッテリーを組んで関西大学の黄金時代を築いたのです。卒業後は、広島へ入団しますが、肩の故障などがあり、25歳で史上最年少の専任コーチに。ただ、技術や理論を教えるのではなく、ものすごい読書家で、カーネギ―の「ひとを動かす」や、孫氏の兵法を取り入れて説明を行います。
結局、西本幸雄さんの野球を学んだことが、人生を左右しました。監督として、必ず出てくるエピソードは、巨人以来のV4を目指した78年の日本シリーズ。大杉勝男の本塁打判定を巡り、シリーズ最長の1時間19分という猛抗議を行いました。現在のようにVTR判定が導入されているわけではなく、一度下った判定が覆ることはなし。しかし、上田さんは線審の富沢さんを変更するよう、必死に抗議をしたそうです。
それから、語り継がれるのは1976年、長嶋巨人と対戦した日本シリーズでしょう。第6戦でサヨナラ負けを喫して、流れは一気に巨人へ。ここで上田さんは試合後、全選手、スタッフを集めてミーティングを行った。
「みんな、シュン太郎や。マージャン、銀座へ行くのもいい。明日午前9時にしっかりと集合や」
と。また、
「新聞や、テレビを一切見るな」
と、念を押して気分転換を図りました。王者阪急の野球は一晩で、蘇ったのです。
ところが、これには、落ちがあって、先発した足立は監督の指示を無視して、
「新聞もテレビも見た」。
125球の完投は意地の投球だったのです。人気のセ、実力のパという言葉が盛んに使われたのも、上田さんの時代でした。ご冥福をお祈りいたします。
7月3日(月) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」