【大人のMusic Calendar】
1962年9月11日のビートルズのデビュー・シングル・セッションは、新参者だったリンゴ・スターにとって、一生忘れることのできない思い出の日になったに違いない。これ、いい意味で書いているわけではない。
そもそもデビュー・シングル・セッションが行なわれたのは、9月11日だけではなかった。その1週間前の9月4日にまずEMIスタジオでジョージ・マーティン立ち合いの元、「ラヴ・ミー・ドゥ」と「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」が収録された。ご存知のファンも多いと思うけれど、前者はジョンとポールのオリジナル曲で後者は他人(ミッチ・マレー)の曲だ。
ビートルズはリヴァプールの「片田舎」から出てきた新人バンドであり、レコーディングを仕切ったのは50年代からパーロフォン・レーベルを引っ張ってきたプロデューサーのジョージ・マーティンだった。後のインタビューで両者が回想しているように、63年までは「先生」と「生徒」の関係――つまり「先生」に言われれば「生徒」は従う、ということである。
そして、これはヒットするから演奏するようにと「先生」が持ってきたのが「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」だった。対してジョンとポールはその「他人の曲」もレコーディングしたものの、あくまで自分たちのオリジナルで勝負をしたいという強気の姿勢を押し通した。
ここまでが9月4日の最初のセッションでの出来事で、当然リンゴはその2曲でドラムを叩いた。が、しかし、翌11日のセッションで、「先生」はリンゴの代わりにベテランのセッション・ドラマーを立てたのだ。アンディ・ホワイトである。ドラムの座を奪われたリンゴは、「ラヴ・ミー・ドゥ」でタンバリンを叩く役割へと「格下げ」になった。
このときもう1曲、ジョンとポールのオリジナル曲「P.S.アイ・ラヴ・ユー」も収録されたが、ここでもリンゴはマラカスを振るハメになった。しかしセッションはそれで終わらず、さらにもう1曲、オリジナルで勝負したいという意気込みの強かったビートルズが準備したのが、セカンド・シングルとなる「プリーズ・プリーズ・ミー」だった。その初期(9月11日録音)のヴァージョンは『アンソロジー 1』(95年)で初めて公表されたが、ドラムはアンディ・ホワイトが叩き、リンゴは不参加である。さらに言えば、11月26日のセカンド・シングルのレコーディングの際に、そのアンディのドラムのリズム・パターンをリンゴが踏襲していることもわかる。
ビートルズの前任ドラマー、ピート・ベストにもダメ出しをしていたジョージ・マーティンとしては当然の判断だったのかもしれないが、当のリンゴはそれをずっと根に持っていた。ジョージ・マーティンも後にお詫びしている。
結局「ラヴ・ミー・ドゥ」の「9月4日録音」ヴァージョンはイギリスのオリジナル・シングルの初回版に収録されただけにとどまり、その後ビートルズのオリジナル・アルバムが初めてCD化された際、アルバム未収録曲をまとめた『パスト・マスターズ』など一部のレコードやCDに収録された程度にとどまった。デビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』や、64年にアメリカでヒットしたシングルで聴ける演奏は、もちろんともに「9月11日録音」ヴァージョンである。
それからおよそ35年。リンゴはその時の恨みを“倍返し”にするかのように「ラヴ・ミー・ドゥ」を再レコーディングした。しかもビートルズ度の高いアルバム『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』(98年)で、である。そうしてリンゴは、「62年9月11日」の出来事に自分なりの“落とし前”を付けたのだった。
【著者】藤本国彦(ふじもと・くにひこ):ビートルズ・ストーリー編集長。91年に(株)音楽出版社に入社し、『CDジャーナル』編集部に所属(2011年に退社)。主な編著は『ビートルズ213曲全ガイド』『GET BACK...NAKED』『ビートル・アローン』『ビートルズ語辞典』など。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。