放送50周年を迎えたラジオ番組「オールナイトニッポン」。番組制作の中で、数々のエピソードが生まれました。2017年10月2日、50周年を迎えたこの日を機に「オールナイトニッポン サイドストーリー」として不定期連載していきます。
オールナイトニッポン・パーソナリティ列伝(第1回)糸居五郎
糸居五郎(1967年10月~1972年9月/1975年1月~1981年6月)
1967年(昭和42年)10月2日・月曜日25時。日本のラジオに画期的な番組が誕生した。後に深夜放送の代名詞と言われ、数々の社会現象を引き起こす番組の名は「オールナイトニッポン」。その第一声を発したのが、ニッポン放送のアナウンサーである糸居五郎だった。
ニッポン放送は全国で最も早く24時間放送を開始したラジオ局(昭和34年)だったが、当時の深夜放送は短い録音番組が延々と続いていくというスタイルであり、中高年向けのお色気番組も数多く、中にはジャズ喫茶がスポンサーの音楽番組や、妖しいムードの女性ナレーションによる番組があったという。「深夜は若者の解放区」という後年のキャッチフレーズには程遠い世界だったのだ。
加えてメディアの中心はラジオからテレビに移りつつありラジオ業界は不況にあえいでいた。そんな時代に始まったアナウンサーによる4時間の放送「オールナイトニッポン」。ターゲットは学生や若者。お色気は一切なし。スポンサーも開始当初は皆無。この企画が当時いかに無謀で異色であったかがわかる。伝説のDJ糸居五郎とオールナイトニッポンの船出はまさに嵐の中の小舟に似ていた。
「パーソナリティ」という、現在ではラジオ番組で喋る人たちを指すこの言葉もオールナイトニッポンで一般的になった。糸居をはじめ月曜日から土曜日までの5人のアナウンサーは、マイクを通してリスナーたちに話しかけ、当時流行の音楽をかけた。若者たちはすぐさま「オールナイトニッポン」に飛びついた。今この瞬間に一緒に起きている人がいる。自分の出したリクエストハガキを読んだり、時に叱ったり時に一緒に笑ってくれる人がいる。パーソナリティの存在は深夜放送の代名詞となり、やがて50年の歴史を重ねるオールナイトニッポンの大きな特徴になっていく。
糸居は大正10年に東京小石川に生まれ、戦前の満州に渡って放送局のアナウンサーとなり、戦後に引き揚げて京都放送などのアナウンサーを経てニッポン放送に入社する。今に残る写真はどれを見てもスーツをまとった「まさにアナウンサー」というダンディな姿。彼は深夜であってもこのスタイルを崩す事がなかった。
オールナイトニッポンが始まった時の年齢は46歳。ANNを担当する他のアナウンサーと比べても飛びぬけて高く、彼らのようにメインターゲットの若者たちと同じ目線で語る事は出来ない。しかし糸居には武器があった。糸居のパーソナリティ(個性)は、音楽だった。
「夜更けの音楽ファンこんばんは。明け方近くの音楽ファンおはようございます」という名調子で始まる糸居五郎のオールナイトニッポンは、当時流行していたザ・ビートルズをはじめとしてジャズ、ブリティッシュロックから日本の歌謡曲までがかかる「音楽番組」であり、彼はスタジオの中にターンテーブルを持ち込んで自らレコードに針を落して音楽をかけるというディスクジョッキースタイルを終生貫く。今もニッポン放送に残る当時の選曲表を見ると1時間に16曲、4時間で実に60曲をかける音楽を流していた事が判る。
現在残っている「糸居五郎のオールナイトニッポン」の音源を聴くと改めて驚かされる。深夜1時の時報と共に一曲目の歌がかかりワンコーラスを聞いたあたりでタイトルコールもなく糸居がしゃべり始め提供クレジットも紹介してしまう回がある。そして1曲目とクロスフェードするようにして2曲目が続いていく。
「音楽で若者とつながる」この思いを貫く為にはいつも新しい音楽と触れていなければならない。糸居はアメリカの音楽チャートをいち早くチェックし、レコードに耳を傾けた。1984年に糸居が亡くなった時、その自宅には1万枚を超えるレコードが遺されたという。(現在、それらは糸居の愛用したレコードプレイヤーや遺品と共にご家族によって北海道新冠にある「新冠町レ・コード館」に寄贈され、見学する事が出来る)
その後、糸居は「50時間マラソンDJ」や「ヨーロッパの海賊放送船から日本のロックも流す」など様々な伝説を残し、日本のディスクジョッキーの第一人者となっていく。50年の歴史の中で、オールナイトニッポンは数々の名パーソナリティを産み出し、多くの言葉、様々な現象を発信していく。だがそのスタートを切った糸居五郎が、言葉よりも音楽で深夜の若者に語りかけていた事は実に興味深い。
【文・正岡謙一郎】