日本で唯一ベーゴマを製造する鋳造所の社長のストーリー
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番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【10時のグッとストーリー】
きょうは、昔懐かしい「ベーゴマ」の製造を、日本で唯一手掛け、消滅の危機から救った鋳物工場社長の、グッとストーリーです。
吉永小百合さん主演の映画『キューポラのある街』の舞台になり、鋳物の街として有名な、埼玉県・川口市。かつては、街のあちこちに煙突が立ち並び、キューポラという円筒形の溶解炉で、職人さんが鉄を溶かして、鍋・釜などの日用品から機械部品まであらゆる鋳物製品を作っていました。
そんな川口の街で生まれ育ち、自分も鋳物の道に入ったのが、川口市で「日三鋳造所(にっさん・ちゅうぞうじょ)」を営む、辻井俊一郎(つじい・しゅんいちろう)さん・70歳です。
「昔の川口は、背の高い煙突だらけで、昼でも空が暗かったですよ。鉄を運ぶポンポン船が川を行き交ってね…」と懐かしそうに語る辻井さん。映画が撮影された1960年代、川口市にはおよそ600軒以上の鋳物工場がありましたが、交通の便がいいこともあって急速に宅地化が進み、臭いやほこり、騒音が出る鋳物工場は、住民の苦情で相次いで閉鎖。マンションや大型店舗に姿を変え、川口駅周辺で今も操業を続けている工場は、わずか数軒になってしまいました。
「映画の頃の面影は、全くなくなってしまいましたねえ……うちも頑張って、鋳物製造を続けていたんですが、時代の波には逆らえなくなって、19年前に工場を閉めました」
実家が鋳物工場だった辻井さんは、大学卒業後、鋳物職人の道へ。名古屋の工場で修業したあと、1972年、叔父さんが社長を務める日三鋳造所に入社しました。会社が主に請け負っていたのは、機械部品の製造でしたが、新人の辻井さんが最初に任された仕事は、なんと「ベーゴマ作り」。
終戦直後から1960年代にかけて、子どもたちの遊び道具の代表だった「ベーゴマ」。昔は鋳物職人が本業の合間に作っていました。辻井さんも子どもの頃、夢中になって遊びましたが、70年代に入ると、遊び道具も豊富になり、ベーゴマ遊びはすでに下火になっていました。
「ベーゴマは、簡単に作れそうに見えますが、意外と手間がかかるし、技術も必要です。でも単価が安いので、100万個売っても儲けにならない。割に合わない商品なんです(笑)」
その上、ベーゴマで遊ぶ子が減ったため、製造を続けているのは日三鋳造所だけになっていました。儲けが出ないのに作っていたのは、当時の社長である叔父さんが、知り合いの鋳物職人から「ベーゴマの灯を消さないでほしい!」と頼まれたからです。社長が心意気で受けたその仕事を、甥っ子の辻井さんに任せたのは、そんな熱い職人魂を伝えたかったからかもしれません。
「ベーゴマの型は、ベントナイトという粘土と、コーンスターチを混ぜた、特殊な砂で作るんです。コマの軸がズレないようにするのも大事で、いろいろ勉強になりました」という辻井さん。
しかし年々、鋳物工場への風当たりは厳しくなり、日三鋳造所も98年、住民への配慮から工場を閉鎖。ベーゴマの灯もいったん消えました。しかし、それを知った全国のベーゴマファンから、会社宛に「製造をやめないで!」という声が殺到。その中には、小学生からのこんな手紙もありました。
「ぼくはベーゴマが大好きです。ぼくのおこづかいでベーゴマを続けてもらえませんか?」
手紙には、テープで百円玉が貼ってありました。………しかし、工場はすでに取り壊した後。辻井さんは社長と相談して、キューポラを残している別の鋳造所へ製造を委託し、ベーゴマ作りを続けることにしました。作り方を職人さんたちに伝えるため、辻井さんが指導に行き、納得がいくベーゴマを作ることに成功。2000年から販売を再開し、ベーゴマの灯は守られることになったのです。
辻井さんはその後、会社を叔父さんから受け継ぎ、三代目社長に就任。いまも日三鋳造所は、日本で唯一のベーゴマ製造会社として、他のものは作らず、ベーゴマだけを作り続けています。さらに、ベーゴマの灯を消さないためには、愛好者も増やさなければと、2001年に「川口ベーゴマクラブ」を立ち上げて、定期的に市内の公園で大会を開いているほか、全国に指導者の派遣も行っています。辻井さんは言います。
「ベーゴマの素晴らしいところは、大人も子どもも一緒に楽しめることです。60代、70代の人が童心に返って、子どもたちと真剣に戦い、終わると友達のように話している姿を見ると、ベーゴマ作りを続けていて、本当によかったと思いますね」
【10時のグッとストーリー】
八木亜希子 LOVE&MELODY 2017年12月9日(土) より
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