映画監督・木村大作、体感温度マイナス35度の八甲田山の湖に入った理由

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「須田慎一郎のニュースアウトサイダー」(11月17日放送)に、映画監督・カメラマンの木村大作が出演。長嶋茂雄が巨人軍に入団した年から映画界に入り、様々な経験を経てカメラマンから監督になるまでのエピソードや、いまの映画界に思うことなどを語った。


高校を卒業してすぐに黒澤明の撮影現場で勤務へ。就職のために入った会社が人生を変えることに

東島)木村さんは1939年生まれ、東京都のご出身です。都立蔵前工業高等学校を卒業の後、東宝撮影部にカメラ助手として、あの黒澤明監督の組に配属されました。その後数々の制作に携わり、映画監督として日本アカデミー賞を21回受賞の他、監督として7つあまりの受賞をなさり、2003年には紫綬褒章を受章されています。伝説のカメラマンとして逸話が多い監督です。最近で言いますと、公開中の時代劇「散り椿」はその映像美が高い作品になっています。

須田)きょうはそんな「言いたい放題」な監督に登場いただき、木村さんにいろいろな思い出話やエピソード、あるいは「最近の映画界にこんなことを言いたいぞ!」ということを伺っていきたいと思います。ですがその前に…プロフィールを見ていて驚いたのが、都立蔵前工業高等学校を卒業してからの、東宝撮影部なのですね。東京の人間しか知らないと思いますが、蔵前工業というと名門中の名門ですよね。

木村)工業高校としてはね。入ったときは上から15番目くらいだったのですよ。一夜漬けの試験勉強をして。ただ、出るときはビリから2番目だった。結局、高2の頃に親父が亡くなって、下に3人も弟がいて俺が長男だから、大学に行く余裕がない。働かなくてはいけない。それでいろいろと就職試験を受けたのだけれど、11個、全部落ちたんだよ(笑)!

昭和33年頃だから、長嶋茂雄が巨人軍に入った年なのだけれど、その頃は映画界がまだ良くてね。観客動員数が1年間で約12億人を超えていたのに、いまは約1億5千人だからね。当時は人手が足りなかった。そこから応募が来ていたから受けてみて…18歳のときから自分はこんな調子だったのよ。だから人事部長とやりあったら、「元気がいい」ということで受かって。それで回されたのが、撮影所。

「撮影助手係」というものが、ちゃんと社員としてあったのだよね。いまは、スタッフはみんなフリーランスだからね。4月に入って、5月には黒澤明監督の現場。そこにカメラも何もわからない人間が、バッテリーを背負うのが仕事みたいな立ち位置で立っていた。それが、映画界に入った最初の頃のこと。
いちばん初めが黒澤明監督なのだけれど、「すごいな」と思ったよ、もう怖くて。そういう意味で自分の人生が変わったね。


極寒のなか、湖に入って八甲田山の撮影。なぜそうなったか?

須田)ちょっと小耳にはさんだのですが、八甲田山の撮影では海に入って…。

木村)海じゃない、湖だよ。山の映画だから、十和田湖。何で入ったかと言うと、岸辺にカメラを添えて撮れば水面をなめて撮れるのだけれど、高倉健さんや俳優さんたちに「すみません、ここ行ってください」と言っても、誰も動かないの。サボタージュが始まって。「こんな撮影なんて冗談じゃない」という雰囲気になっちゃったんだよ、現場が。

「これは何かしないとどうしようもないな」と思って、ある種のパフォーマンスですよ、ざぶざぶざぶざぶ…ってね。その頃は羽毛なんてなくてビニール、登山靴も革だから、水のなかに入っちゃうとどうしようもない。でも、膝までじゃ意味がないから、胸くらいまで入って「キャメラ、ここー!!」って怒鳴ったのだよね。そうしたら、みんな僕の事をどう思う?「完全にキタな」と。撮影助手もみんな、ボーっと見てるわけ。そしたら森谷司郎監督が、やっぱり立派な監督だよね、わっ! と俺のところに入って来た。それでもう1回「キャメラ、ここー!!」と怒鳴ったら、撮影助手もカメラを2台持って来て立てた。

そこで「すみません、俳優さんそこまで動いてください」と言ったら、やっと動いてくれた。それで高倉健さんが、「これからはあいつの言うことは聞こう。あれはもう、どうしようもない」と(笑)。言う通りやらないと、えらいことになると。
これは有名な話になっちゃったけれどね。だって、体感温度マイナス35度だよ(笑)。

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須田慎一郎のニュースアウトサイダー
FM93AM1242ニッポン放送 日曜 18:50-19:20

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