話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。本日は、27日に今季限りでの現役引退を発表した、鹿島アントラーズのMF・小笠原満男選手のエピソードを取り上げる。
「今シーズンをもって、鹿島アントラーズで現役生活を終えるという決断をしました。これまで自分を支えてくれた方々、一緒に頑張ってきた選手達、応援してくれたサポーター、鹿島アントラーズに関わるすべての方々に感謝しています」(鹿島公式サイトより)
27日、サッカー界に衝撃を与えた、小笠原の電撃引退発表。1998年、鹿島に入団した小笠原は、2006年途中から1年間だけイタリア・セリエAのメッシーナに移籍しましたが、その期間以外は、鹿島ひと筋でプレー。在籍21シーズンで、公式戦725試合に出場、96得点。精度の高いキックと、状況に応じたゲームメイク能力を武器に、2000年の国内3冠(Jリーグ・ナビスコ杯・天皇杯優勝)、2007年~09年のJ1リーグ3連覇に貢献するなど、合計17のタイトルを獲得しました。
また日本代表としても、2002年にA代表デビューし、国際Aマッチには通算55試合出場。FIFAワールドカップにも2002年日韓大会、2006年ドイツ大会と、2度出場しています。
22日にUAEで行われたFIFAクラブワールドカップの3位決定戦、リーベル・プレート戦での途中出場が、現役最後のゲームになりました。
小笠原が引退の意向をクラブに伝えたのは、Jリーグ最終節前の11月末だったそうです。鹿島側は1年の契約延長を考えていましたが、本人の意思を尊重。小笠原はクラブワールドカップ終了後、チームメイトの前で直接、引退を報告しました。DF・内田篤人はこう言います。
「満男さんの背中を見ているだけで、やらなきゃって思うんだよ」
チーム最年長の39歳になっても、手を抜かず真剣に練習に取り組み、チームの精神的支柱でもあった小笠原。口数は少ないタイプですが、鹿島が常勝軍団であり続けるためにはどうすればいいかを、背中で示し続けたのです。
セリエA移籍を経て、07年夏、鹿島に復帰すると、自らの意思で、それまでの攻撃的MFから守備的MFに転身。相手からボールを奪い、後輩にパスして攻撃を託す黒子的な役割に変わり、そこから史上唯一のJ1リーグ3連覇が始まりました。
草創期のアントラーズを創り、現在はテクニカル・ディレクターのジーコ氏が掲げる「献身、誠実、尊重」……自己中心的な考えを捨て、チームを勝たせることだけに専念することをピッチ上で体現してみせたのが小笠原でした。
また、岩手県出身の小笠原は、2011年3月11日、東日本大震災が起こると、数日後には自分で車を運転し、被災地に支援物資を届けました。子どもたちの遊び場がないと知ると、高校時代を過ごした大船渡市にグラウンドを造って寄贈したり、現地でサッカー教室を開催。
東北出身の選手たちを集め「東北人魂を持つJ選手の会」を結成し、被災地の支援活動に取り組んできたことも忘れてはいけません。
活動を始めて3年目のある日、指導した少年から「自分もJリーガーを目指します!」と言われ、とても嬉しかったという小笠原。東北から少しでも多くのJリーガーが生まれ、自分たちを追い抜いていってくれることが、小笠原の望みです。
「自分はサッカーだけをやっていればいい、というのは違うな、と思っているんです。地元のために、何かできることを見つけて、これからもやっていきたいと思っています」
近日中に会見を開く予定の小笠原。第2のサッカー人生にも注目です。