1月9日は“フォーク・ソングの女王”ジョーン・バエズの誕生日
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1941年1月9日生まれだから、ジョーン・バエズはかつて何度も共演し、一時は恋人でもあったボブ・ディランよりもひと足先に78歳になった。リリースしたアルバムは軽く30枚を超す。バエズに与えられた“フォーク・ソングの女王”という惹句を、彼女は決して快く思わなかったはずで、かえってフォーク全盛時代を過ぎてからのキャリアの足かせにすらなったように思える。昨2018年、バエズが約10年ぶりにリリースした傑作スタジオ・アルバム『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』に耳を傾けた人が日本にどのくらいいたか、少々心もとない数字しか思い浮かばない。今や巨匠の仲間入りをしたジョー・ヘンリーがプロデュース。かつて驚くべき声域を誇った彼女のヴォーカルは、落ちついたアルト・ヴォイスになっていたが、ひとつひとつの言葉がしっかりと心に届く。ディランとはまた違った意味で、バエズは見事な熟成をみせていた。アルバム・リリースのあと、バエズはツアー活動からの引退をほのめかす“フェアウェル・ツアー”を行った。本当か? 命のある限り彼女が伝えたいメッセージは世界中に山積しているはずだから、またいつか会えることを願ってやまない。
ちなみにアルバム・タイトルの『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』はトム・ウェイツの曲だ。これはウェイツが友人のシンガー・ソングライター、トム・ヤンス(1984年没)に向けて書いた追悼歌だった。ヤンスはかつてバエズの実妹ミミ・ファリーニャとデュオを組んでいたことがあり、そのミミも2001年に亡くなっているから、この歌には特別な味わいがある。バエズにはもちろん自作自演の歌も数々あるけれど、いい歌を次世代に向けて歌い継ぐ“インタープリター”としての役目を彼女は宿命のように背負っている。
まだ芽の出ていなかったボブ・ディランを自分のコンサートに連れ出し、「誰だそいつは?」と野次る聴衆に向かって、「黙って彼の歌を聴きなさい!」と一喝する役目もバエズが担っていた。実際、バエズほど多くのボブ・ディラン作品を歌ってきた歌手はいない。彼女の初期のアルバムの大半にはディランの歌が必ず収められていたし、ディランと別れたあとも2枚組のディラン作品集『エニー・デイ・ナウ』(68年)をリリースした。時おり茶目っ気たっぷりに歌うディランの物真似は大受けした。ディランと別れたあとずいぶん経って、彼との思い出を自作自演した歌「ダイアモンド・アンド・ラスト」(75年)は、誰もが認めるバエズの大傑作曲だ。
高名な物理学者を父に持つバエズは、恵まれた家庭環境のもとに育った。しかしその父がメキシコ系米国人であったことから、浅黒い肌のバエズは少女期から差別にさらされ、そのことが彼女のもうひとつの側面“アクティヴィスト”としての姿勢を貫かせる。60年代の公民権運動、ベトナム反戦運動(戦火のハノイにも赴いた)、死刑廃止運動、人権擁護運動、LGBT支援、イラク戦争反対から、近年のウォール街占拠まで、政治・社会運動に真っ向から取り組んできた。彼女は1967年に初来日したが、ステージ上での政治的な発言を日本人の司会者はほとんど訳出しなかった。
だから、本当のことを言えば、バエズの足跡は日本において正当に伝えられているとは言えない。「ドンナ・ドンナ」や「ゼア・バット・フォー・フォーチュン」(後者はフィル・オクスのメッセージ・ソングだが…)などの比較的耳あたりのよいレパートリーが、大半のファンの記憶の限界だろう。
本国アメリカでは、もう少し異なるバエズ像が認識されている。1959年、第1回目のニューポート・フォーク・フェスティヴァルでボブ・ギブソンのステージに招かれ、飛び入りの形で観客の耳目を奪ったこと。米英の数多くのトラディショナル・フォークを現代によみがえらせたこと、70年にザ・バンドの「オールド・ディキシー・ダウン」をカヴァーし、全米チャートの3位となるヒットを生んだこと、2016年にはニューヨークのビーコン・シアターで75歳のバースデイ・コンサートが催され、ジャクソン・ブラウン、デヴィッド・クロスビー、ジュディ・コリンズ、エミルー・ハリス、メイヴィス・ステイプルズ、リチャード・トンプソンらが参加したこと…(CDとDVDのセットが発売されている)。そして2017年には“ロックンロールの殿堂”に選出されている。
【著者】宇田和弘(うだ・かずひろ):1952年生まれ。音楽評論家、雑誌編集、青山学院大学非常勤講師、趣味のギター歴は半世紀超…といろんなことやってますが、早い話が年金生活者。60年代音楽を過剰摂取の末、蛇の道に。米国ルーツ系音楽が主な守備範囲。