デビュー9試合で7発! 伝説の「台湾スラッガー」は?

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話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、1988年に台湾から来日。日本球界で鮮烈デビューを飾った元巨人・呂明賜選手にまつわるエピソードを取り上げる。

プロ野球 巨人対中日 3回裏 本塁打を放つ巨人・呂明賜(ロ・メイシ)=1988(昭和63)年7月6日、北海道札幌市の円山球場 写真提供:産経新聞社

新型コロナウイルスの感染拡大で、なかなか開幕のメドが立たない日本のプロ野球。NPBは5月中の開幕を断念。セ・パ交流戦の中止も決まり、開幕は早くても6月となりました。しかも通常開催が厳しい現状では、「無観客開幕」も検討せざるを得ない状況です。

そんななか、4月12日から無観客での開幕に踏み切ったのが台湾プロ野球です。台湾政府から外出禁止令が出たり、選手・チーム関係者に感染者が出た場合、即中断という条件付きですが、全世界のプロスポーツ関係者が、再開のモデルケースとして台湾プロ野球の行方を真剣に見守っています。

試合の模様は無料でWeb中継されていますが、野球が観られなくてウズウズしている日本のファンからは、「久々にゲームが観られてよかった」という声も。

昨年(2019年)暮れ、楽天が「ラミゴ」を買収。今シーズンから「楽天モンキーズ」に衣替えして新規参入したことや、中信兄弟のチアガール・チュンチュン嬢が日本の雑誌グラビアで話題になったこともあり、台湾の野球に関心を持つ人も増えているようです。

台湾はもともと日本球界と関係が深く、現在も、台湾で三冠王に輝いた王柏融(ワン・ボーロン、日本ハム)や、日本の高校(福岡第一)に進み、ドラフトを経てプロ入りした陽岱鋼(ヨウ・ダイカン、日本ハム→巨人)がNPBでプレー。

他にも、宋家豪(ソン・チャーホウ、楽天)や、陳冠宇(日本での登録名は「チェン・グァンユウ」、ロッテ)らが1軍で活躍しています。

少し遡って80年代には、「二郭」と呼ばれた郭源治(カク・ゲンジ、中日)、郭泰源(カク・タイゲン、西武)の両投手がチームの優勝に貢献。台湾出身のプレーヤーは、日本のプロ野球でもおなじみになって行きました。

また2002年には、当時ダイエーの指揮官だった王貞治監督(現・ソフトバンク会長)の縁で、ダイエーvsオリックス戦が2試合、台湾の天母球場で開催。球場は2試合とも超満員になっています。

王氏は巨人でプレーしていたときから台湾でも英雄でしたが、「台湾と巨人」といえば、忘れてはいけない選手がいます。1988年、彗星のように現れ、旋風を巻き起こした呂明賜(ロ・メイシ)です。

呂は大学時代、台湾代表の4番を務め、通算112本塁打をマークしたスラッガーです。「日本のプロ野球で力を試したい」と海を渡り、憧れの王氏が監督を務める巨人に入団。背番号は「97」でした。

現在NPBでは、外国人選手の1軍登録枠は最大4人ですが、呂が巨人入りした1988年当時は2人だけ。この年の巨人は、ウォーレン・クロマティが不動のレギュラーでしたが、前年(1987年)に江川卓が引退した穴を埋めるため、メジャーからエース級のビル・ガリクソンを獲得。外国人枠が埋まってしまい、呂は2軍暮らしを余儀なくされます。

実績からして仕方ないとはいえ、呂にとっては砂を噛むような思いだったに違いありません。腐らず2軍で打ちまくり、腕を磨きましたが、6月にチャンスが巡って来ます。

クロマティが死球を受け骨折。その代役として、ついに1軍からお呼びが掛かりました。

1軍デビュー戦は6月14日、神宮球場で行われたヤクルト戦。「6番・ライト」でスタメン出場した呂は、初回の第1打席でいきなり観客をアッと言わせます。

1死一・三塁のチャンスに、ヤクルト先発・ギブソンの2球目を振り抜くと、打球はレフト上段へ。「初打席初本塁打」という鮮烈デビューを果たしました。

呂の活躍はまだまだ続きます。「全打席、ホームランを狙う」という宣言どおり、デビューから9試合で、何と7本塁打の固め打ち。その後も打棒は衰えず、呂明賜の名前は野球ファン以外にも知られるようになりました。

7月に入ると、呂は4番に昇格。憧れの王監督から「巨人軍の主砲」に抜擢されたのですから、まさに天にも昇る気持ちだったに違いありません。

前半戦終了時点で、呂の打撃成績は「打率.317、11本塁打、21打点」。クロマティの離脱で沈みかけていた巨人が首位争いを演じていたのは、紛れもなく呂のお陰でした。

「球宴でも呂を観たい」というファンの声に応え、NPBは急きょオールスターゲームの外国人枠を拡大。呂は監督推薦により、滑り込みで出場を果たします。

まさにシンデレラボーイですが、実はこのとき、呂は左ヒザを痛めていました。

後半戦に入ると、ヒザ痛の悪化と、相手に研究されたこともあって、魔法が切れたように成績は下降。1年目は「79試合出場、打率.255、16本塁打、40打点」でシーズンを終えました。デビュー時の印象が強烈だっただけに、尻すぼみの感が否めなかった記憶があります。

さらに追い打ちを掛けるように、呂にとってショックな出来事が起こります。星野仙一監督率いる中日に独走を許し、優勝を逃した王監督は責任を取り辞任。藤田元司氏が監督に復帰します。

2年目の1990年は背番号が「12」となり飛躍が期待されましたが、後ろ盾を失ったこともあってか不振は続きました。2年目の本塁打は、わずか2本……。

再びファーム暮らしとなった呂に復活の日は訪れず、打撃コーチとの確執もあって、来日4年目の1991年限りで巨人を退団、台湾に帰国しました。その後、呂は台湾プロ野球で活躍。引退後は、台湾代表の監督も務めています。

呂の衝撃デビューから32年……当時はまだ「昭和」でしたが、平成を越え、令和になっても野球ファンの間で語り草になっています。

プロ野球開幕が待てない方、台湾野球にもちょっと目を向けてみてはいかがでしょう? もしかすると「第2の呂明賜」が現れるかもしれませんよ。


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