松山英樹 マスターズ勝利の陰に「10年前の快挙」

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話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、4月12日(日本時間)に米男子ゴルフツアー・マスターズで日本人ゴルファー初勝利という歴史的快挙を成し遂げた、松山英樹選手にまつわるエピソードを取り上げる。

松山英樹 マスターズ勝利の陰に「10年前の快挙」

米ゴルフのマスターズ・トーナメントで、日本男子初のメジャー制覇を果たし、グリーンジャケットを着て両手を上げる松山英樹=2021年4月11日、米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(ロイター=共同) 写真提供:共同通信社

『(日本男子は)これまでメジャーで勝てなかったことが、僕が勝ったことによって、これから先、日本人が変わっていくんじゃないかなと思う。僕は、もっともっと勝てるように頑張りたいなと思います』

~『日刊スポーツ』2021年4月12日配信記事 より(松山英樹コメント)

宿願、成る……これまで、日本人男子ゴルファーにはどうしても手が届かなかったメジャータイトルを、ついに松山英樹が手にしたのです(シニアを除く)。しかも、その初タイトルが、最高峰のマスターズ。誰もが夢見た「日本人がグリーンジャケットを着る日」が、ついに現実のものになりました。

過去、マスターズに挑んだレジェンドゴルファーたちも、この快挙にはいろいろこみ上げて来るものがあったようです。中嶋常幸プロはTV中継で泣いていましたし、日本ゴルフツアー機構の青木功会長も12日の「報道ステーション」で「松山が勝った瞬間、ジーンと来て泣いてしまった」と告白しています。

マスターズには、1936年(第3回)以来、今回の松山を含む33人の日本人ゴルファーが、のべ132回挑戦。これまでの過去最高は4位でした。今回の優勝は、日本人初というだけでなく、アジア人ゴルファー初のマスターズ勝利でもあり、まさに歴史的偉業でした。

3日目を終えて、2位に4打差の首位。普通の大会なら「楽な展開」と言えますが、舞台はマスターズです。3日目のホールアウト後の会見で、最終日への抱負を聞かれた松山は、いつもどおりの感情でプレーしたい、と答えていましたが、我々には想像のつかないプレッシャーが襲っていたはずです。

注目の最終日、松山は1番ホールでいきなりボギーを叩き、おや、と思いましたが、続く2番でバンカーに入れながらみごとなリカバリーを見せ、最初のバーディー。さらに8番・9番で連続バーディーを決め、2位との差を5打差に拡げ、後半9ホールに突入。この時点では誰もが「もう優勝は間違いない」と思ったことでしょう。

しかし、いざ優勝が現実に近づいて来ると、やはり松山も人の子でした。15番・16番で連続ボギー。優勝を決めた最終18番も、パーパットを外しボギー。終わってみれば、2位とは1打差……1度でも大崩れしていたら、並ばれるか逆転されていたのです。そこをグッと踏みとどまり勝ちきった松山。メンタルの強さをあらためて感じました。

ところで、松山が初めてマスターズに出場したのは、ちょうど10年前の2011年。アマチュアだった大学時代のことでした。3日目には「68」と60台をマーク。初めて経験するオーガスタで、60台で回ったのも驚きますが、4日間トータルで1アンダー。みごとローアマチュア(アマ選手最高成績)の称号を獲得しました。

実は、日本人ゴルファーがマスターズの表彰式に出席したのは、このときの松山が初めてでした。あのとき恥ずかしそうにはにかんでいた青年が、10年後にウィナーになったのです。今大会3日目のホールアウト後に行われた会見で、松山は当時を振り返って、こう語っています。

『ここに初めて来た時は、震災(当時在籍した東北福祉大のある仙台市も被災した東日本大震災)があったので、まずここに来ることができるか分からない状況だった。ここに来て、ローアマチュアを取ることができて、そこでこの場を経験していなかったら、今の自分はないと思っています。そういう意味では10年前に、ここでプレーできたのは、今でもすごく心に残っています』

~『日刊スポーツ』2021年4月11日配信記事 より

2011年のマスターズの際は、大会の1ヵ月前に東日本大震災が襲い、当時松山は仙台の東北福祉大学に在学中でした。東北はいわば第2の故郷。「東北がこんな状況のときに、ゴルフをしに行ってもいいのだろうか?」と悩み、一時は欠場することも考えたと言います。

しかし「ぜひ出て欲しい」という激励の声がたくさん届き、出場に踏み切った松山はみごとローアマを獲得。10年前のマスターズ表彰式で、松山は顔を赤らめながら、こうスピーチしています。

「日本の被災地はまだ大変ですが、マスターズでのプレーで少しはみんなに希望と喜びを与えられたと思います」

~『ALBA』2020年4月8日配信記事 より

拍手喝采を浴びた松山。このときはアマチュアのため賞金はもらえず、義援金にすることはできませんでしたが、帰国後はさっそく被災地支援の活動を行い、それはいまもずっと続いています。

松山は、マスターズ優勝後の会見で、こう語っています。

『10年前ここに来たときに、自分が変わることができたと思う。10年というと早いのか遅いのかわからないが、そのとき背中を押してくれた人たちに感謝している』

~『サンケイスポーツ』2021年4月13日配信記事 より

松山がプロ転向後も、仙台に住民票を置き、賞金に掛かる税金を地元に還元しているのは有名な話です(ちなみにマスターズの優勝賞金は2億円以上)。震災から10年経ったいまも、プレーする松山の胸には、つねに東北への思いがあるのです。

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