ニッポン放送「八木亜希子LOVE&MELODY」(毎週土曜日8時30分~10時50分)の番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【東京新聞プレゼンツ10時のグッとストーリー】
きのう・8月6日は広島、あさって・9日は長崎に原子爆弾が投下された日です。戦中・戦後の広島を舞台に、様々な困難に直面しながらも前向きに生きる女性・すずの暮らしぶりを描き、大きな反響を呼んだアニメ映画『この世界の片隅に』。その主題歌が、コトリンゴが歌う『悲しくてやりきれない』でした。オリジナルは、1968年、ザ・フォーク・クルセダーズが歌った曲ですが、実はこの歌を作詞した人物は、原爆と深い関わりがあったのです……。
『この世界の片隅に』の主題歌『悲しくてやりきれない』。音楽担当のコトリンゴさんがアルバムでカバーしたヴァージョンに、片渕須直(かたぶち・すなお)監督が感銘を受け、採用しました。
「悲しくて悲しくてとてもやりきれないこのやるせないモヤモヤをだれかに告げようか」
戦争によって大切な人やかけがえのないものを失ったり、人生を狂わされたり……そんなやりきれなさ、「やるせないモヤモヤ」を歌った歌詞は、まるでこの映画のために書き下ろされたかのようです。この詞を書いたのは、詩人のサトウハチローさん。歌の作詞も手掛け、戦後最初のヒット曲といわれる『リンゴの唄』や、『ちいさい秋みつけた』など、数々の童謡の作詞者としても知られています。
敗戦から4年後、まだ戦争の傷跡が生々しく残る1949年に、サトウさんはある本に出逢います。長崎の原爆で妻を亡くし、自らも被爆して重傷を負いながら、被爆者の治療に全力を尽くした医師・永井隆さんの手記『長崎の鐘』。サトウさんはこの本に感動し歌にしようと決意。この曲が生まれました。
古関裕而さんが作曲し、藤山一郎さんが歌った『長崎の鐘』は人々の胸を打ち、大ヒットしました。サトウさんがなぜそれほどまでに『長崎の鐘』に力を注いだかというと、実はサトウさん自身も、広島の原爆で弟を亡くしていたのです。サトウさんは広島へ行き弟を探しましたが、亡骸(なきがら)はおろか遺品を見つけることすらできませんでした。「こよなく晴れた青空を悲しと思うせつなさよ」
『長崎の鐘』の詞には、そんなやるせなさ、せつなさ、原爆・戦争に対する怒りが込められていました。
それからおよそ20年が経った1968年。サトウさんの家に、普段から懇意にしている音楽出版社の社長が訪ねてきました。その横には、長髪の若者が一人。「サトウさん、彼のいるグループ、新曲が出せなくなってしまったんです。新しい曲を持ってきたので、ちょっと詞を書いてもらえませんか?」その若者とは、加藤和彦さん。当時まだ20歳でした。
前の年に出した『帰って来たヨッパライ』が大ヒットしたザ・フォーク・クルセダーズ。第2弾としてレコーディングしたのが、引き裂かれた南北朝鮮を歌った曲『イムジン河』でした。ところが、訳詞をめぐってクレームが付き、発売日の直前に販売中止が決定。出荷寸前だったレコードはすべて回収・破棄されることに……。加藤さんもまた「やるせないモヤモヤ」を抱えていたのです。
急きょ、音楽出版社の社長から、新しいオリジナル曲を書くよう言われた加藤さん。社長室に缶詰にされ、曲ができるとすぐ、サトウさん宅に連れて行かれました。その場では特に打ち合わせをすることもなく、挨拶程度でサトウさん宅を後にした加藤さん。1週間後、サトウさんから送られてきた歌詞を見て加藤さんは驚きました。「エ、こんな詞でいいの?」その詞は、自然の風景を眺め、ただ嘆きだけを綴ったものだったからです。ところが実際に歌ってみると、曲にぴったりとはまっている上に、不思議と心に沁みる……「これがプロの詞か……すごいな」と、思わず唸った加藤さん。
一方サトウさんも、曲を聴いて、加藤さんの才能を見抜いていました。「この曲には、聴く人に希望を感じさせる何かがある」と感じたからでしょう。直接的な励ましの言葉を、一切入れませんでした。広島で弟を探したときの「やるせないモヤモヤ」「もえたぎる苦しさ」……そんな嘆きの言葉を並べてもこの若者の書いた曲に乗れば、本当の思いは伝わるはず。後世に残る名曲は、こうして誕生したのです。
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