◎2007年6月19日 広島市民球場
日本ハム 1 0 2 0 0 2 4 1 0 = 10
広島 2 0 1 0 0 0 0 0 3 = 6
HR(日本ハム)セギノール14号・15号・16号 高橋4号 稲葉7号
(広島)新井16号 嶋7号
1試合に左打席・右打席の両方でホームランを打つ「両打席本塁打」。パンチ力のあるスイッチヒッターでないと達成できない記録だ。日本のプロ野球では1975年にリッチー・シェーン(広島)が初めて記録。以降、2022年に打ったアリスメンディ・アルカンタラ(日本ハム)まで20人の選手が、延べ43回達成している。
複数回達成した選手の主な顔ぶれを見ると、松永浩美(阪急・オリックス)が6回、トニー・バナザード(南海・ダイエー)、オレステス・デストラーデ(西武)、松井稼頭央(西武)、金城龍彦(横浜)が3回(所属は達成時の球団)。全員が球界を代表するスイッチヒッターだ。
この「両打席本塁打」を通算9回、しかも3球団で記録した外国人選手がいる。フェルナンド・セギノールだ。セギノールは2002年、まずオリックスでプレー。「2試合連続・両打席本塁打」というNPB史上初の記録を達成した。この年、さらにもう1回両打席本塁打を放ち、シーズン3回はこれも史上初。23本塁打をマークしたが、調子にムラがあり1年で解雇。いったん米国に帰った。
翌2003年はニューヨーク・ヤンキース傘下の3Aチームでプレー。ここで日本での経験が生きてくる。もともと速球には強かったが、日本で変化球への対応を学んだことで打撃も向上。3Aで首位打者と本塁打王の2冠に輝いた。出場は数試合だがメジャー再昇格も果たし、松井秀喜とチームメイトになっている。
このセギノールの“進化”に目をつけたのが、2004年から日本ハムの指揮をとったトレイ・ヒルマン監督だった。実はヒルマン監督、セギノールが来日前にマイナーでプレーしていたときに監督を務めたことがあり、彼のことをよく知っていた。「ファイターズでまた一緒にやらないか?」と日本ハム入りを打診されたセギノールは再来日。このとき「日本へ忘れ物を取りに行く」と宣言したという。
「今のセギノールなら、今度は日本でもしっかり活躍してくれるはず」というヒルマン監督の読みは正しく、2004年、セギノールは44本塁打を放ち、打率.305、打点108と申し分のない活躍を果たした。この年三冠王に輝いたダイエー・松中信彦と並んで初の本塁打王のタイトルを獲得。両打席本塁打も2回記録している。2006年には、チームが優勝争いをしているシーズン終盤に打ちまくり、日本ハムのリーグ優勝と44年ぶりの日本一にも貢献。通算6回目の両打席本塁打も放ち、先述の松永浩美の記録に並んだ。
翌2007年、新記録達成の時がやって来る。6月19日、旧・広島市民球場で行われた広島との交流戦。3回、広島のマウンドには「ナックルボーラー」のジャレッド・フェルナンデスが立っていた。投球のおよそ8割がナックルという異色のピッチャーで、彼は右投手だったが、セギノールはなんと左打席ではなく、右打席に立った。「ナックルばかりで、内に食い込んでくるボールは投げてこない」と読んでのことで、読み通り高めに浮いたナックルを引っ張って、左翼スタンド中段へ13号アーチをかけた。
6回、フェルナンデスに対し再び右打席に立ったセギノール。外角の球を今度は逆方向の右中間スタンドへ運び、14号勝ち越し2ラン。もうお手上げである。7回、投手は右投手の横山竜士に代わった。今度はインコースを攻めてくるので、セギノールはセオリー通り左打席へ。初球、甘く真ん中に入ったストレートを見逃さずバックスクリーン右横上段に運び、ダメ押しの16号。推定飛距離145mの特大アーチだった。
こうして、NPB記録となる通算7度目の両打席本塁打をマークしたセギノール。記念すべき7度目の両打席本塁打には「いずれも右投手から打った」という珍しい記録もついた(これも史上初)。この2007年、日本ハムはリーグ連覇を果たしたが、セギノールは21本塁打を放ったものの、持病のヒザ痛悪化もあって打率.249と不振に終わり、セギノールはこの年限りで日本ハムを退団した。
翌2008年7月、楽天からシーズン途中にオファーを受け2年間プレー。楽天でも2年連続で両打席本塁打を放っており、通算記録は9回に伸びた(現在もNPB記録)。2010年6月、古巣・オリックスから声が掛かり復帰。しかし輝きを取り戻すことはなく、日本でのプレーはこの年が最後となったが、パ3球団でプレー。ファンに愛された選手だった。これは余談だが、2019年に両打席本塁打を記録した日本ハム・杉谷拳士が「これからは『スギノール』と呼んでください!」とアピール。これが縁で2人はCMで共演している。
<チャッピー加藤>





