#32 柏原純一(日本ハム) 敬遠球をホームラン
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◎1981年7月19日 平和台球場
西武 0 0 0 0 0 0 0 0 0 =0
日本ハム 0 1 0 1 0 2 0 0 X =4
HR(日本ハム)ソレイタ29号 クルーズ14号 柏原7号
申告敬遠の導入で、今はもう見られなくなってしまった、キャッチャーが立ち上がって投手が大きく外す「敬遠」。バッターは黙って一塁へ歩くしかないが、時には「まさか打ってこないだろう」という油断から、手を伸ばせば届くかもしれないところに投げてしまうピッチャーもいる。そんな体勢で打っても凡打に終わる確率が高いのだが、「ここは見送るより、打ちに行ったほうがいい」と周到に計算して、なんと敬遠球をスタンドインさせてしまった選手がいる。1981年、日本ハムの主砲だった柏原純一である。
熊本県立八代東高校出身の柏原は、1970年のドラフトで南海ホークス(現・ソフトバンク)から8位指名を受け入団。当時、南海の指揮をとっていたのが野村克也選手兼任監督である。スラッガーの素質を持ち、プロ3年目に1軍昇格を果たしながら、なかなかレギュラーの座が奪えない柏原をもどかしく思ったのだろう。1976年のシーズン中、野村は柏原に手を差し伸べた。「純一、どや、ワシと一緒にトレーニングせんか?」
柏原は毎年春先は打つが、必ず途中で下降線をたどっていた。そうならないようにマンツーマンで打撃を指導してやろう、というのだ。柏原はさっそく野村が住んでいたマンションの隣室に引っ越した。当時のプロ野球選手は夜中まで飲み歩く豪傑も多く、柏原もその1人だったが、野村は柏原がどんなに遅く帰って来ても、起きて待っていてくれたという。これでは練習しないわけにはいかない。特訓の成果はしっかり成績に表れ、プロ6年目のこの年、柏原は初めて規定打席に到達。打率.260、16本塁打をマークした。
ところが……このマンツーマン指導は突然終わりを告げる。翌1977年オフ、野村が監督を解任され、一捕手としてロッテに移籍することになったのだ。野村を慕う柏原は「自分もロッテにトレードしてください」と移籍を直訴したが、球団は野村のもとへ行くことは認めず、代わりに日本ハムとのトレード話をまとめてしまった。柏原は「どうしても野村さんと一緒のチームでプレーしたい」と、任意引退も覚悟でトレードを拒否。話し合いはこじれにこじれ、ついに年を越してしまった。
事態収拾に動いたのは野村だった。恩師からの説得を受け、1978年1月下旬、柏原は日本ハム移籍を承諾。迷惑をかけたからには、バットで取り返すしかないと活躍を誓った。1978年、柏原は移籍1年目から全試合に出場し、主砲として活躍。1980年には自己最高の34本塁打、96打点を記録し、押しも押されもせぬ日本ハムの主軸打者となった。
もともと高校時代から計算して動くプレーが好きだったという柏原。南海時代、野村とドン・ブレイザーヘッドコーチから「シンキング・ベースボール」を叩き込まれ、頭脳プレーに磨きがかかった。そして1981年7月19日、福岡・平和台球場で行われた西武戦で柏原は“伝説”を作る。この日は九州でのゲームとあって、柏原の故郷である熊本・八代市からも応援団が駆けつけていた。
2-0と日本ハムがリードして迎えた6回、2死三塁のチャンスで柏原に打順が回った。故郷の人たちの前でいいところを見せる絶好の機会だったが、西武ベンチはバッテリーに敬遠を指示。柏原応援団からは「あーあ」とため息が漏れたが、柏原はこんなことを考えていた。「スキがあったら打ってやろう」。
黙って立っていれば一塁へ行けるのに、なぜリスクを冒してまで敬遠球を打とうと思ったのか? それには理由があった。このとき、西武のピッチャーは左のサイドハンド・永射保。次打者のトニー・ソレイタは永射をたいへん苦手にしていて、打つ可能性は低かった。ならば、歩くより自分が打ったほうが得点できる可能性は高い。しかも三塁にランナーがいるため、このとき三遊間が大きく空いていた。ならば、ショートゴロを打てば内野安打になるはずだ……もし凡退して「なんで打ちにいったんだ!」と怒られたときに備えて、柏原はそんな理屈も用意していたという。
柏原に対し、外に2球大きく外した永射。柏原はただ見送るのではなく、ちゃんと間合いを測っていた。そして3球目の敬遠球が、少しだけ内に入って来る。柏原は「待ってました!」とばかりに巧みなバットコントロールによって真芯でとらえ、振り抜いた打球はそのまま左中間スタンドへ。なんと史上初の「敬遠球ホームラン」となった。1960年、巨人・長嶋茂雄が敬遠球を打ってランニングホームランを記録したことはあったが、スタンドインさせたのは後にも先にも、このときの柏原だけだ。
柏原はその後、1985年まで日本ハムでプレーし、1986年からは阪神に移籍。1988年に現役を退き阪神のコーチとなった。二軍打撃コーチ時代に育てた1人が現日本ハム監督・新庄剛志で、新庄も1999年6月、甲子園球場で行われた巨人戦で敬遠球を打ってサヨナラヒットを記録している。これも柏原とひそかに練習した成果だったのは言うまでもない。
<チャッピー加藤>





