北京で陸上選手1本でやっていくんだと決心しました-中西麻耶

By -  公開:  更新:

ニッポンチャレンジドアスリート・中西麻耶インタビュー(2)】

このコーナーは毎回ひとりの障がい者アスリート、チャレンジドアスリート、および障がい者アスリートを支える方にスポットをあて、スポーツに対する取り組み、苦労、喜びなどを語ります。

IMG_0636-800x600

中西 麻耶(なかにし まや)
1985年大阪市生まれ。
ソフトテニスのプレーヤーだったが、2006年事故で右ひざから下を切断。退院後の2007年、障がい者陸上へ転向。事故から2年後の2008年、北京パラリンピックに出場。100m6位、200m4位と、義足のスプリンターとして、日本人女子初の入賞を果たす。2012年ロンドン大会にも連続出場。一時引退を宣言したが復帰し、リオを目指す。

ーー再びスポーツをするために、右足切断を決意した中西。だが、義足で始めたのは元々やっていたテニスではなく、未経験の陸上競技だった。その訳は。

中西 入院中からインターネットが使えるので、検索をしていたら、陸上といえば東京にいて義足を作っていらっしゃる「臼井さん」という方が出てきて、「私はテニスをしたいんですけど」と連絡を入院中からとっていました。

退院して今までと同じチームに戻っていったんですけど、私の打ちやすいボールを打ってくれたりだとかそうした時に、なんか人に気を使わせてまでテニスをしたくないなっていう気持ちも生まれてきました。

そのときに臼井さんに「健常者の中で頑張るのもいいかもしれないけど、同じ障害をもった人と一緒に何かをすることによって、また違った物事が見えてくるかもよ」とお声がけ頂いてちょっと陸上の練習を見にいってみようかなと。

本当にそれぐらいの気持ちでいったんですけど、みんな私と同じようなところで切断になっている方たちが、気持ちよく走ってる姿を見て、「私ももう一度走りたい!」という気持ちが大きくなって、興味半分で陸上をやってみようかなって思ったら、はまっちゃったという感じでしたね。

ーー驚いたことに中西は競技を始めてすぐ、100m・200mで日本記録を樹立。正直どんな心境だったのだろう。

中西 テニスをしてたときってやはり中学生からはじめてこんなに練習してるのに日本一になることってなかったんですよね。
競技をはじめて、半年も経たないくらいの時期に100m・200mで、日本記録を樹立したので、物足りなさをすごく感じるというか、自分の中では納得いかないっていう気持ちが実は大きかったですね。

ーー陸上競技に目覚めた中西は猛特訓を重ね、パラリンピック出場の条件である国際A標準記録をあっさりクリア。北京パラリンピック出場が決定した。迎えた2008年、北京パラリンピック本番。中西は100mで6位、200mで4位と共に入賞の快挙を果たす。だが、本人はこの結果に納得はしていなかった。

中西 私は競技場やテニスコートに入った時に「あ、今日負けるな」って感覚をもったことがないんですよ。でも、今でも覚えているんですけど初めて北京のパラリンピックの100mの決勝にいく前に海外の選手を見たときに「本物がいるな」とやっぱり思っちゃったんですよね。

さらにいろんなことが全てフラッシュバックしてくるんですよね。自分が障がい者スポーツ自体をバカにしてたなっていうのを一番最初に感じて、「なんでしっかりと準備できなかったんだろう。

世界で記録を出すとかメダルをとりますとか言いながら本当に口先だけの言葉をもう取り消してしまいたい」っていう気持ちでいっぱいで、しかも勝負をかける前から負けちゃうって思うなんて恥ずかしいな、と。

とにかく早く帰国してまた次の4年後に備えたい!って気持ちが大きかったです。それまでって、テニスも並行しながらやっていたので、たぶん天秤にかけていたりだとかしてるところはあったんですよね。北京のパラリンピックに出たときに初めて自分は陸上選手1本でやっていくんだと決心することができました。(その3へ続く)

(3月23日・24日放送分より)

ニッポンチャレンジドアスリート
ニッポン放送 毎週月曜~金曜 13:42~放送中
(月曜~木曜は「土屋礼央 レオなるど」内、金曜は「金曜ブラボー。」内)
番組ホームページでは、今回のインタビューの模様を音声でお聴き頂けます。

Page top