今日夕方、年末の風物詩とも言われる「2016ユーキャン新語・流行語大賞」が発表されました。
ノミネート30語の中から年間大賞としてプロ野球広島東洋カープの鈴木誠也選手が発した「神ってる」が選ばれ、対象は逃したものの世の中に流行した言葉ということでトップテンも同時に発表、授賞式が都内のホテルで行われました。
そのトップテンの中に「保育園落ちた 日本死ね」という言葉が選ばれ、民進党衆議院議員の山尾志桜里さんが表彰されました。
『山尾議員「保育園落ちた―」受賞に「待機児童問題を政治のど真ん中に移動できた」』(12/1 スポーツ報知)
表彰式には、この匿名ブログについて2/19の衆院予算委員会で取り上げた民進党の山尾志桜里議員(42)が青のジャケットスーツで登場。「私が賞を受け取っていいのかとも思うんですけど、声を上げた名もない一人のお母さんの言葉と、それを後押ししてくれた2万7,862人の署名を下さった方たちに代わって、この賞を受けたいと思います」と話した。
普通は「神ってる」のようにその言葉を発した人、考え出した人が選ばれるんですが、この言葉に関しては世の中に広く紹介したという意味で山尾議員が選ばれたそうです。
それもなんだか持って回ったような感じがして、だったらトップテンにしなくてもいいんじゃない?という向きもありますが、ま、それは置いておいて。この言葉そのものが非常に激しく、荒っぽい表現なので、言葉が一人歩きしていますが、そもそもどうしてこの言葉が国会で取り上げられたのか?一度おさらいしておきましょう。
これが紹介されたのは、今年2月29日の衆議院予算委員会での質疑。山尾議員の安倍総理への質問の一環で登場しました。
『第190回国会 予算委員会 第17号(H.28/2/29(月)』(衆議院HP)
でも、私がこの場で発言をすることまで与党の皆さんは禁止されないと思いますので、この場で御紹介をさせていただきます。国民の皆さん、フリップに出せませんけれども、聞いてください。
ちなみに山尾議員が問題にした講演での発言については、安倍総理はこの委員会での答弁でこう述べています。
私が言ったのは、その意味でということは、就業者が九十万人以上ふえたというところに置いているわけでございまして、普通の読解力があればそれはわかるのではないのかなと思うわけでございます。
待機児童問題は、そもそも保育園の不足という問題から発生します。そして、各自治体は認可保育園の数を増やしてこの問題に対応するわけですが、その過程で保育園の数を増やし枠を増やすことで、今度は子どもを保育園に入れて働こうという就業希望者が増え、その結果増やした枠以上に応募者が殺到し、さらに問題が深刻化するということが言われています。これは極端な暴論ですが、保育園の枠を増やしたところで世の中が不景気のままであれば就業希望者が増えず、待機児童問題は解決に向かいます。(もちろん、その裏で不景気なために就職の希望すらしなくなった失業者が増えて、社会不安が増大すると言うもっと大きな問題が起こるのは言うまでもありませんが)待機児童問題の解決への施策と並行して、アベノミクスによる景気回復が重なったので、特に都市部で待機児童問題が深刻化した面もあるわけですね。
これはもちろん、公的機関がさらに社会保障への支出を増やすことで施設をもっと多く作れば解決へ向かっていきます。世間の注目が集まることで予算が付くという側面もありますから、このセンセーショナルな言葉を紹介することで解決に向け加速させた一面もあるでしょう。山尾議員自身、受賞のスピーチでこう述べています。
「奇跡のような流れの中、安倍総理に質問したら、たくさんの人たちが私たちも名前を名乗るよと署名が集まって。そこから待機児童問題が政治問題の隅っこからど真ん中に移動できた。これからは解決する段階と思う」
ただ、この言葉が問題の焦点をぼかした部分もあると私は思うんですね。というのも、都市部での保育園不足は公的セクターが解決するべき問題であるという部分にフォーカスし過ぎてしまった感があるのです。もちろん、実際に予算を付けて政策として保育園を整備していくのは自治体の仕事です。しかし、自治体だけがどんなに頑張っても、解決しない問題があります。最近問題になっている保育園反対運動です。
『吉祥寺の認可保育所、開設断念 住民反対で事業者が撤退』(9/29 朝日新聞)
『住民が保育所猛反対 芦屋で開園を断念』(8/23 神戸新聞)
「保育園 反対」というキーワードでニュース検索をかけるともう出るわ出るわ。この問題、どの記事でも、住民のインタビューを読んでも、「市の説明がない」「市の仕切りが悪い」「市がきちんと進めなかった」と自治体の不作為が問題の根本であるというようなことが書かれています。反対派の住民も、保育園を求める親たちもおそらく自治体が悪いと思っているのでしょう。
しかし、本当に利害がぶつかっているのは「反対派の住民対自治体」、「保育園を求める親対自治体」なのでしょうか?事業主体は自治体であっても、あるいは自治体が委託した業者であっても、本当にぶつかっているのは「静かに暮らしたい住民」対「子育てをしながら働きたい住民」の利害対立なのではないでしょうか?
保育園建設に反対している「静かに暮らしたい住民」も、かつては子育てをした経験があるかもしれません。その当時は共稼ぎをせずとも十分に生活できるだけの収入があったり、今ほど生活費が高くないので、または親戚縁者の助けがあって保育園が必ずしも必要なかったのかもしれませんが、今逆の立場に置かれたらどうか?あるいは今保育園を作ってほしい、子育てをしながら働きたい住民も、子育てが一段落するであろう20年後にも同じ問いをされたらどう答えるのか?
これは住民と住民、市民と市民の利害対立であって、間に挟まれる自治体は媒介者でしかないのではないか?そう考えるときに、「保育園落ちた 日本死ね」と公に責任を求めるのが政治家として正しい立場なのでしょうか。住民同士が膝詰談判して、直接意見をぶつけ合うなどして「認知の壁」を取り払わない限り、お互いに自己主張だけして何の解決にもならないのではないでしょうか。
「保育園落ちた 日本死ね」という言葉は、問題の一面をクリアカットに見せる効果はあったのでしょう。一面に光を当てすぎると、それ以外の面はすべて影になって見えなくなってしまいます。その影にこそ光を当てることが、政治家の役目ではないかと思うのです。受賞にはしゃいで「これからは解決する段階と思う」なんて他人事のコメントをしている場合ではないのではないでしょうか?
ニッポン放送飯田浩司アナウンサー「イイダコウジ そこまで言うかブログ」2016年12月1日分より