日米通算2,000本安打を達成した瞬間、ヒューストンの本拠地、ミニッツメード・パークはスタンディングオベーションで青木を祝福しました。
驚きました。
涙が出るほどうれしい。
ぼくぐらいの選手のために…。
事前に打ち合わせがあったわけではありません。
スタンドのファンは、「ヒューストンからの贈り物」と説明していますが、ただ、拍手を送るわけではなく起立して称える様を見ていると実にスマートでした。
日米通算2,000本安打達成は7人目。
青木はメジャーリーグ移籍後、717本のヒットを放っています。
メジャーだけで3,046本のイチローと比較すると、見劣りするのは致し方なし。
でも、メジャーで1,000本以上のヒットを記録したのは、イチローの他には松井秀喜がいるだけです。
この2人に続いて、日本人選手では、青木が第3位。
存在は地味ですが、すごい選手だと再認識しました。
宮崎県日向市出身です。小学1年から野球を始めて、6年ではエースとして県大会に優勝。
甲子園を夢見た時もありました。
しかし、中学、高校と思うように成績が上がらない。
加えて、肩を故障して早大では野手へ転向します。
ちなみに、指定校推薦で、これには学業の成績が良いことが条件でした。
大学で4年間、精いっぱい頑張る。
と誓ったものの、レギュラーを獲得するのは、並大抵の苦労ではなかったようです。
同学年には、阪神へ入団する鳥谷などがいて、1年上のエースは現ソフトバンクの和田。
早大初の4連覇を成し遂げたメンバーの1人で、黄金時代を形成しました。
確かに、センスはあったでしょうが、野手転向直後で苦労も多く、でも、その中で青木は指導者に恵まれました。
野村徹監督から、
左バッターで、足が速い。三遊間へ内野安打を狙え。
と言われると、徹底した左打ちを練習。
大学ではそれでも通用しました。
しかし、2003年ドラフト4巡目で入団したヤクルトでは、若松監督から、
左にしか打てないようでは、プロで通用しない。1年間は1軍にはあげることはないだろう。
と、2軍でやり直しを厳命されています。
結果として、この下積みがその後の青木へプラスに出ました。
04年、秋季キャンプでは、若松監督とマンツーマンで練習に取り組み翌05年、シーズン202安打で最多安打、新人王、首位打者を獲得。
10年には日本プロ野球史上初めて、2度目の200安打を達成しています。
杉村コーチは、
あれだけの実績があって、年俸もすごい。だけど、内野ゴロでも全力疾走するなど、いつも新人のように一生懸命だった。
11年オフ、ポスティングシステムでメジャー挑戦。
ブルワーズが交渉権を得たものの、実は入団テストが待っていました。
首位打者3回など、日本を代表する選手でも、実績は信用されていなかったのでしょう。
当時を振り返り、
いつも、そうだから。
だからこそ、5球団を渡り歩くことができたのです。
スタメン、代走、代打など使い勝手が良く、アストロズは、アメリカン・リーグ西地区で首位を快走中。
6割8分8厘はメジャー30球団で、最も高い勝率を誇ります。
ワールドシリーズで勝ちたい。
と、今日も全力でプレーを宣言しました。
6月13日(火) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」