DeNAへ移籍の大和「金本監督からの説得なかった」
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阪神から、国内FA権を行使した大和の、横浜DeNA移籍が発表されました。今オフ、関西のスポーツ紙ではその動向が大きく報じられ、時には1面の扱いも。ファンの間では、それほど愛された選手でした。
2005年高校生ドラフト4巡目指名。樟南高時代、2度の甲子園出場を果たし、テレビ観戦していた、当時の岡田彰布監督がテレビ中継をみていて、獲得を進言したという異例の存在でした。いったい、どこが目を引いたかといえば、守備力です。また、プレ北京オリンピックの代表へ選出された際、星野仙一監督から、
「タイガース、守備ナンバーワンは大和」
と断言。さらに、中日時代の井端(現巨人コーチ)が、
「大和には勝てないかも」
と漏らしたこともある。守備のスペシャリスト。
野球を始めたのは小学生でした。職人技を身に着けたのは、毎日の積み重ね。テニスでは、よくカベ当てを行いますが、大和も的をつくって、これを忠実にコツコツとやってきた。
「カベ当てを続けてこなければ、プロにはなれなかった」
と自身が断言するほどです。1軍初出場を果たしたのは、09年。本来のポジションはショートでしたが、鳥谷という大きな存在があり、2塁と守備固めが多かった。
このままでは、クビになると、1軍の高い壁と、危機感でその年のオフから、ポジションを外野にまで広めることを決意。自ら願い出て、特訓がスタートしました。いくら、守備の達人とはいうものの、勝手の違いにビックリ。
「怖くて仕方がない。フライがとれない」
と頭を抱え込む日々もありました。そこからは生き残りをかけての挑戦。小学生時代を思い出し再び、コツコツと練習の日々を送ります。
そして、発見したのが独自の調整法です。外野ノックを受ける時、意識的にスタートを遅らせる。ギリギリの状況をつくり出して、捕球に入る。平凡なフライをファインプレーに見せ、自信をつけたそうです。ユーティリティープレーヤーとして、12年から出場機会が増え、14年は外野手部門で、ゴールデングラブ賞を受賞。今シーズンからは、スイッチヒッターへ転身するなど、さらなる極みを目指しました。100試合に出場し、打率2割8分。もう、守備の人とは呼ばせないと気迫をアピールしました。
そうして、取得した国内FA権です。当初、残留が既定路線で、阪神も「どうしても残ってほしい」と、4年契約で総額4億5000万円を提示。他でも、横浜DeNA、オリックスが獲得へ乗り出します。とりわけ、オリックスは前身の阪急でレジェンド、「福本豊にしたい。背番号7を」と、ラブコールを送りました。横浜DeNAも交渉解禁日から、いかに必要かを必死に説く。
でも、大和は常に阪神を第一と考えていた。にもかかわらず、どうして移籍へ傾いたのかといえば、金本監督が直接、説得しなかったことで、自身の未来を予想した、といわれています。かつて、長嶋さんは、槙原のFA騒動で花束を携え自宅を訪ねた。必要な選手なら、そうしてつなぎとめる。結局、出場機会がより増えるように、移籍を決断したのです。
「もし、自分がフロントだったら、1軍へあがるまでの5年間。いつ戦力外にしても不思議はなかった。ファンやタイガースへの感謝の気持ちは忘れません」。
3年契約、3億円以上で、4年目は球団が契約延長の選択権をもつ内容で、横浜DeNAと合意しました。
12月1日(金) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」