星野仙一が「世界一の球場」と愛したナゴヤ球場の今
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【報道部畑中デスクの独り言】
中日ファンの“聖地”ナゴヤ球場…スコアボード上には半旗が掲げられていました。
プロ野球・中日でエースとして活躍し、監督としても中日・阪神・楽天を優勝に導いた星野仙一さんが亡くなりました。監督時代の采配についてはいろいろな見方がありますが、様々な足跡を残した星野さんですから、プロ野球ファンのみならず、人々の心にはそれぞれに星野さんの姿があるのだと思います。
低迷にあえいでいた2003年の阪神の優勝、東日本大震災の復興の象徴だった2012年の楽天の優勝…そして、中日ファンである私にとって一番記憶に残っているのは中日時代の星野さんです。
「島谷へのサードライナー! 中日20年ぶりの優勝!」
1974年10月12日、中日球場(現・ナゴヤ球場)で開催された大洋(現・横浜)とのダブルヘッダー第2試合、山下大輔選手の放ったサードライナーを三塁の島谷金二選手がジャンピングキャッチ。中日が6対1で勝利し、20年ぶり2度目の優勝を決めました。星野さんが木俣達彦捕手と抱き合い、球場のファンがグラウンドになだれ込んだシーン、私は当時小学生でしたが、今でもはっきりと覚えています。翌日の新聞では2人が抱き合う写真のそばに男泣きする星野さんの姿がありました。星野さんはその後も特に“宿敵”巨人には闘志を燃やし、ガッツポーズやマウンドで吠える姿を何度も目にしました。
私の手元には30年前の中日新聞があります。星野さんは監督になって2年目で中日を6年ぶり4度目の優勝に導きました。郭源治投手が泣いた優勝決定試合。星野さんの「選手もよく耐え忍び乗り越えてくれた」というコメントが記されています。星野監督「第一次政権」の時でした。
様々な「星野語録」がある中、印象に残っているフレーズがあります。
1996年10月6日、ナゴヤ球場で一軍公式戦としては最後の試合が行われました。星野監督「第二次政権」の時。相手は巨人、長嶋茂雄監督のいわゆる「メークドラマ」発言で巨人がリーグ優勝した試合でした。試合終了後、ナゴヤ球場のお別れセレモニーで、星野さんは目の前で優勝を決めた“宿敵”巨人のメンバーを祝福した上で、こうあいさつしました。
「ありがとう、ナゴヤ球場、世界一のスタジアムだと思っています! 今までナゴヤ球場を愛して下さった皆さん、また来年、ドームでお会いしましょう」
また星野さんはナゴヤ球場について、次のような発言をしていたのを記事で読んだことがあります。
「“天幕なし”の球場で汗をかく…これがいいんだ」
この“天幕”とはドーム球場のことを指すと思われます。現在、プロ野球12球団のうち、ドーム球場を本拠地にしているのは半数の6球団に上ります。悪天知らず、人工芝で近代的、スマートで清潔なイメージのあるドーム球場ですが、その一方で、土のにおい、泥臭さもまた野球本来の魅力だと思います。
屋根のないグラウンドで夏は暑く、冬は寒く…そんな中で体を鍛えていく…天然芝と土の球場の故、雨には弱いですが、そのグラウンドを入念に整備し、次に備える…試合中は真剣勝負、天に響くように吠える…星野さんは中日の監督時代、ドーム球場の本拠地を経験してはいますが、実はそんな“天幕なし”の泥臭い野球が最も似合っていたのが星野さんだったと私は思います。星野さんが中日の監督退任後、監督を歴任した阪神と楽天。奇しくもこの2球団の本拠地は甲子園・仙台(現・楽天生命パーク宮城)で、ともに屋根のない球場です。
“世界一のスタジアム”ナゴヤ球場に先日足を運びました。星野さん死去後、球団旗は半旗が掲げられ、中日の若手選手が黙とうを捧げました。また、15日~17日には球場に献花台が設けられたそうです。私が訪れた日は選手の自主トレが行われていて一般にも無料開放。快晴の中、キャッチポールを受けるボールの音、ノックを受ける選手と打球の響きがありました。
球場はナゴヤドーム完成後、大幅に改装され、スタンドは縮小されました。また、スコアボードやフェンスを埋め尽くしていたにぎやかな広告もほとんどなくなりました。しかし、新球場建設後、旧球場の多くが閉鎖・解体されることが多い中、ナゴヤ球場は練習場確保のために残され、まだまだ二軍の試合や練習に使われています。何よりもそこには数え切れないほどの名勝負、夢と思い出が詰まっていて、私も少年時代、熱い思いに浸りました。何度も父親と一緒にナゴヤ球場に行きましたが、特に巨人戦は超人気カードで連日35,000人の超満員、なかなか一塁側のチケットがとれなかったこと、声を枯らして応援したこと、試合終了後、近くの古びた喫茶店で飲んだ熱いミルクコーヒーの味も覚えています。
38年ぶりに訪れた“聖地”ナゴヤ球場はやはり「ぼくらをじい~んとしびれさす」ものでした。熱い記憶が色褪せることはありません。まもなくプロ野球はキャンプイン、5年連続Bクラスに低迷する中日ドラゴンズですが、黙とうを捧げた選手たちの胸には刻まれるものがあったのではないかと思います。(肩書はいずれも当時)