元沖縄県副知事が語る沖縄の「本土復帰50年」

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元沖縄県副知事・上原良幸氏が5月16日、ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」に出演。沖縄の「本土復帰50年」について語った。

元沖縄県副知事が語る沖縄の「本土復帰50年」

2022年5月15日、式辞を述べる岸田総理~出典:首相官邸ホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/actions/202205/15shisatsu.html)

沖縄本土復帰50年

5月15日、沖縄が本土に復帰してから50年を迎えた。今回は本土復帰の翌年、1973年に沖縄県庁に入庁し、2010年~2013年まで当時の仲井眞弘多知事のもとで副知事を務めた上原良幸氏が、本土復帰50年を迎えた沖縄について語る。

1995年の米兵少女暴行事件で沸騰した沖縄

飯田)本土に復帰して50年が経ち、さまざまなところで達成した部分はありますか?

上原)振興開発計画という名前で30年間やってきました。しかし30年になる前、1995年に米兵による少女暴行事件が起き、あれで沖縄は沸騰しました。

飯田)少女暴行事件。

上原)当時、冷戦が終わり、ヨーロッパなどでもアメリカ軍が退き始めていたのです。全世界が緩和の方向にあって、基地に対する需要が下がり、縮小されるだろうと思っていたのだけれども、沖縄に関してはまったくそういうことはありませんでした。

橋本総理大臣談話

上原)世界的な動きは軍備縮小のなかで、沖縄の基地はどうなるのか見通しがまったくつかない。そういうときにあの事件が起きました。当時の橋本龍太郎総理大臣が沖縄県の反基地運動に対し、何とかしなくてはいけないということで、総理談話を出しました。総理大臣としての沖縄に対するものです。

飯田)公式声明のようなものですか?

上原)そうです。閣議決定されました。そのなかで、沖縄県に対するいままでの取り組みが十分ではなかったと言ったのです。

返還25周年での橋本元総理の式辞

上原)それともう1つ、1997年に返還25周年の記念式典があったのです。2022年で復帰50年ですから、ちょうど半分です。そこに橋本元総理が来られて、彼が式辞を述べるのですが、その式辞がまたすごい内容なのです。

飯田)橋本元総理の式辞。

上原)いままではハード事業、振興開発としての開発だったのです。しかし、橋本元総理は「開発ではなくソフト面を国がやりましょう」と言ったのです。そろそろ国が手厚くすることはなくなるだろうと思っていたら、逆でした。積極的にソフトの面からやり始めます。

軍事戦略上の拠点であるということは、経済的な物流の拠点でもある沖縄

上原)これからは単なる全国並みの振興開発だけではなく、ソフトを含めて歴史的にも地理的にも、沖縄の特性を活かしていこうということでした。沖縄の米軍の車のナンバープレートは“KEYSTONE OF THE PACIFIC”だったのです。これは「太平洋の要石」ということです。まさにそれと対照的なことが起こるのです。何が言いたいかというと、軍事戦略上の拠点であるということは、民事を含めて拠点になり得るということなのです。

飯田)経済的な流れでも、ものの流れでも、ということですね。

上原)今回のウクライナ情勢もそうですが、民事でも物流がこれから最も経済を支えるものになるということです。

元沖縄県副知事が語る沖縄の「本土復帰50年」

2022年5月15日、式辞を述べる岸田総理~出典:首相官邸ホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/actions/202205/15shisatsu.html)

経済的な強さと、人間的な暖かさが両立できる社会を沖縄ならつくれる

上原)そして自然的条件から言うと、日本のなかで沖縄ほど恵まれている地域はないと思います。日本のなかでも唯一の亜熱帯で綺麗な海や空に囲まれ、なおかつ冬は温暖です。

飯田)そうですね。

上原)もう1つ、基本的なことになりますけれども、沖縄の特性として誰とでもフレンドリーになれるのです。人間の幸せというのは、人との出会いによるところが大きい。「それが人生だ」という考えでいなくてはいけない。ネット上では出会いがあるかということですよね。面と向かって息づかいを感じながら、出会って触れ合って支え合うというような社会をつくるべきだと思います。経済的な強さと、人間的な暖かさが両立できる社会を、沖縄ならつくれるのではないかと思います。それが私の結論です。

依存する経済構造から方向転換しようとした橋本元総理

飯田)沖縄の本土復帰50年について、須田さんはどうお感じになりますか?

ジャーナリスト・須田慎一郎)米軍統治下に置かれていた状況では、アメリカサイドはまったくインフラに対する投資、生活を向上させるための予算は割いてきませんでした。本土に復帰した時点では、戦後がそのまま残っているような状況でした。私も沖縄県出身の方にお話を伺ったことがありますが、当時は一定程度の所得がないと靴も買えなかったそうです。裸足でぬかるみを歩いているような状況でした。

飯田)裸足で。

須田)そこから一気に本土並みのインフラを整備していくということは、当時の日本の中央政府は相当、一生懸命やったのだろうと思います。ただ、復帰したとき、日本は既に高度経済成長を実現していました。世界第2位の経済大国になっていましたから、格差がありました。

飯田)沖縄との。

須田)格差の穴埋めのためにインフラ投資をやったのだけれども、結局、それをやったことで、公共事業投資などに依存してしまう経済構造になってしまった。ですから自立的に、工業でものをつくる、あるいはソフト面で産業を勃興するというところが置き去りにされてしまった。

飯田)依存する経済構造のために。

須田)仕方がないのだけれど、そういう負の部分が残ってしまったのかなと思います。そして上原さんが言われているように、橋本龍太郎さんが総理大臣になった際、大きく方向転換が行われたのだと思います。

ここへ来て激変する極東の安全保障環境 ~安全保障面でのアメリカの必要性が再上昇

飯田)30年が経とうとしていた時期は、第3次振興計画の最中だったということです。インフラは一定程度の整備ができたから、「これで終わるのではないか」と危惧していた部分があったのだけれども、そうではなく、今度は「ソフト面をやるのだ」ということを言われた。そして、「自分たちが沖縄から計画を出していこう」という取り組みも始まったということでした。21世紀ビジョンなどを提起する機運があの当時は生まれたとおっしゃっていました。

須田)そうですね。

飯田)その後、「最低でも県外」という発言もあり、政治の部分でこじれていってしまった。その辺り、この20年くらいのボタンの掛け違いが大きかった印象があります。

須田)加えて今日に至って考えてみると、極東の安全保障環境は激変しました。冷戦終結時は、このまま世界が平和になっていくのではないかと思われましたけれども、中国の経済成長を含めて、あるいは北朝鮮という存在を含めて、極東の安全保障面におけるアメリカの必要性は低下していくどころか、むしろ上昇していく状況になりました。

本土復帰の際の「米軍基地を残す」という条件 ~それを許容してきた日本政府の対応の問題

飯田)15日の式典のなかで、エマニュエル米駐日大使のスピーチがウクライナ情勢を引きながら、価値観の共有や同盟の大切さを訴えていて、沖縄が新たなキーストーンになっているという内容でした。アメリカがそのように見ているということは大きいですよね。

須田)沖縄が本土復帰するにあたって、米軍基地の取り扱い、要するに「このまま残す」ということが条件で日本へ返還するということでした。この返還自体がアメリカサイドにとってみると、異例な対応であり、そのためにこうして条件を付けたわけです。そして、日米安保条約のなかでそのまま許容してきてしまった。それでよかったのかどうか、あるいは日米地位協定について、政府がどういう対応をとったのかということが問題ですよね。

自衛隊に対しての県民感情が変化してきた沖縄

飯田)一方、日本を自分たちで守るという意味で、自衛隊の存在があります。かつて沖縄では、自衛隊に対する県民感情はよくなかったのですけれども、いまはかなり変わってきているということです。その辺りの役割も、今後の検討課題になるかも知れないですね。

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