数量政策学者の高橋洋一が7月13日、ニッポン放送「飯田浩司のOK!Cozy up!」に出演。7月8日に奈良県の大和西大寺駅で街頭演説中に銃撃を受け暗殺された、安倍晋三元総理大臣について語った。
安倍元総理と高橋洋一氏の長い付き合い ~官房副長官だった小泉政権の時代から
飯田)高橋さんは、第1次安倍政権の時代にも官邸参事官を務めていたのですか?
高橋)副秘書官というようなポストでした。秘書官というのは、財務省や経産省などからですが、「それ以外の省庁から取ろう」と安倍さんが言ったのです。そのなかになぜか私が入ってしまった。秘書官と同じ扱いで、部屋も与えられるというようなポストでした。
飯田)副秘書官。
高橋)そもそも、私は小泉政権のときから竹中平蔵さんの補佐官をやっていたのですが、そのとき、安倍さんは副長官でした。
飯田)官房副長官。
高橋)そのときからの付き合いです。
金融政策について質問してきた初めての政治家だった
高橋)当時、ゼロ金利解除の議論があったのですが、ゼロ金利解除にしてしまったのですよ。2000年のときでした。
飯田)小泉政権が発足した直後くらいですか?
高橋)その少し前ですね。そのあとに安倍さんが、「高橋さん、ああいうのはいいのか?」と聞かれたのが最初です。その当時、金融政策について質問する政治家はいなかったのです。ほぼすべて役所にお任せでしたから。金融政策は難しいので、「安倍さんはこういうことに関心があるのだ」と驚きました。
飯田)いまでこそ「金融緩和をすることによって、雇用に効いてくるのだ」ということは……。
高橋)いまでもよくわかっていない人がいるでしょう。安倍さんは、そういう意味でも例外的な政治家でした。
飯田)もともと安倍さんは厚労族でしたよね。
高橋)厚労族でした。まったく関係ないですね。私はそのころ、竹中平蔵さんのところで、さまざまなポジションを持っていて、内閣府で経済財政諮問会議の担当をしていました。
飯田)経済財政諮問会議の。
高橋)経済財政諮問会議では、ときどき金融政策の話をするのです。それで関心があったのだと思います。
「ゼロ金利解除は失敗」というポール・クルーグマンからのメールを安倍元総理に見せた
飯田)当時、安倍さんは副長官として、経済財政諮問会議にオブザーバーとして出ていた。
高橋)それで疑問に思っていたのではないでしょうか。私がそのときに話したのは、私の知り合いにアメリカの経済学者のポール・クルーグマン氏がいて、その人から「2000年のゼロ金利解除は失敗です」というメールがきたので、見せてあげたことはあります。そうしたら、「ホウ」という感じでした。
飯田)ノーベル経済学賞を受賞された方。
高橋)そのときはノーベル経済学賞はまだ獲っていないですよ。
飯田)2000年ではまだですね。その後、ポール・クルーグマンさんはノーベル経済学賞を獲り、アベノミクスについても評価していました。来日もされています。
小泉政権のあとも「官邸参事官へ」と安倍元総理から連絡
高橋)私は安倍政権のときに官邸参事官になったのですが、小泉政権時に竹中平蔵さんが辞めて、補佐官である私も辞めるつもりでした。しかし、(安倍さんから)連絡があって、「次もやってくれませんか」と言われたのです。本当のことを言うと、既に大学に内定していたのです。
飯田)次の就職先が。
高橋)内定していたので、「1日考えさせてください」とお答えした記憶があります。さすがに即答はできませんでした。
公務員制度改革
飯田)第1次政権のとき、経済政策についてもいろいろと……。
高橋)していました。秘書官が4~5人しかいないので、別の複合秘書官をつくるという構想もありました。そこに入ってくれないかと言われたのです。「そうすると財務省が2人になってしまいますが、いいのですか?」と聞いたら、そういうことは気にしないと。
飯田)経済政策や、公務員制度改革などに、第1次政権でだいぶ手をつけましたよね。
高橋)公務員制度改革は、退任になるときに「何が印象に残っていますか?」と聞いたら、公務員制度改革をあげたので、みんな驚きました。実は当時、内閣人事庁の話などがすべて一緒だったのです。その第1弾として行ったという認識があったので、「道半ばだった」という意識があったのでしょうね。
飯田)やり残した部分を第2次政権でと。
高橋)第2次政権ではなく、そのあとの福田政権で渡辺喜美さんがやりました。
飯田)それで、最後の会見で泣きながら。
高橋)最終的には全部できなくて、第2次政権のときに全部の法律をギリギリのタイミングで出したという経緯があります。
よく勉強していた第1次政権と第2次政権の間
飯田)第1次政権から第2次政権までの間、民主党政権のときもありましたが、あのときはどうだったのですか?
高橋)よく会っていました。ああいう形でお辞めになったから、誰も来ないでしょう。ですから、アポなしで簡単に会っていました。そのときに話をすると、よく勉強されていて、構想がたくさんあったのではないでしょうか。
飯田)「もし、次に総理になったら」ということで、ノートをつけておられたという。
高橋)そのノートを見たことはありませんが、よく勉強されていました。
飯田)そのなかには、経済政策やアベノミクスの……。
高橋)入っています。金融政策や雇用なども。金融、量的緩和政策については小泉政権のときにやめてしまったのですが、そのあとに「このような形で雇用が下がり、景気が悪くなりますよ」と予測したのです。それをあとで「当たるね」と言っていました。
飯田)福井総裁の時代に、ゼロ金利を解除してしまったのですよね。
高橋)そのあとに予測したのですよ。「何ヵ月後にこうなりますから」と。そういう話もよく覚えておられました。それを国会で「高橋さんにこのように聞いた」などと言っていました。
安倍元総理に言われて防衛省から「教えてください」と連絡があった
高橋)安全保障についても勉強していて、「高橋さん、アメリカで何をやったの?」と聞かれたので「戦争論なのですよ」と教えたら、「ええっ」と言われました。そのときに、「相手が民主主義国家でない場合は戦争確率が高くなる」とか、「防衛費が低いと戦争確率が高くなる」、「同盟に入っていないと戦争確率が高くなる」というような話をしたら、よく聞いていました。ご自分の頭のなかにあった構想と一緒だったのでしょうね。
飯田)「バチッ」と合った。
高橋)私は数字で言うわけです。「確率がこうなります」と言ったら、そのあとすぐに防衛省から連絡がきて、「それを教えてください」と言われました。外務省からはこなかった。外務省はおそらく話し合いなのでしょうね。防衛省は数理的な話に興味があったのだと思います。
飯田)安倍さんが言われて、防衛省も動くというような。
高橋)数字はおもしろいでしょう。ただ、国会答弁は外務省がつくるから、国会答弁でそういう話はいっさいありませんでしたが。
飯田)しかし、安倍さんの頭のなかには、数字的な裏付けのようなものがあった。
電話で経済や安全保障についての確認をする
高橋)あとは、ウクライナの話になると、「高橋説はよく当たりますね」と言われました。「あれは高橋説ではなくて、国際関係の標準理論です」と言った記憶があります。
飯田)さまざまな人に話を聞いて、そこから種を見つけてきていたのですね。
高橋)安倍さんの電話が多いのは、確認なのです。「誰かがこう言っているけれど、どう思う?」というような感じの電話ばかりでした。私は役人だから、こちらからかけることはありませんが、連絡がきたときにはすべて答えていました。経済の話も、安全保障の話も多かったですね。
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