関西ダービー実現か 阪神・岡田監督とオリックスの“浅からぬ因縁”

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話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、チームを18年ぶりのリーグ優勝に導いた阪神・岡田彰布監督と、もう1つの古巣・オリックスとの“因縁”にまつわるエピソードを紹介する。

関西ダービー実現か 阪神・岡田監督とオリックスの“浅からぬ因縁”

【プロ野球阪神対巨人】優勝インタビューに臨む阪神・岡田彰布監督=2023年9月14日 甲子園球場 写真提供:産経新聞社

プロ野球・レギュラーシーズンもいよいよ大詰め。9月14日、球団最速で18年ぶりにセ・リーグを制した阪神に続き、20日にはオリックスがパ・リーグ3連覇を達成。どちらも独走でのV決定で、今季(2023年)のプロ野球は関西勢の強さが際立ったシーズンになりました。

オリックス・中嶋聡監督は“ナカジマジック”と呼ばれる巧みな選手起用術を今季も駆使。打順を固定せず、選手の調子を見て臨機応変にオーダーを組み、3年連続でチームを栄冠へと導きました。オリックスのリーグ3連覇は、前身の阪急時代、上田利治監督が4連覇(1975年〜1978年)を飾って以来のことで、「いよいよ黄金時代到来か」という声もあります。

これと対照的だったのが、阪神・岡田監督の選手起用です。こちらは主力選手の打順と守備位置を固定。大山悠輔は一塁、佐藤輝明は三塁に専念させ、守備での負担を減らしました。また中野拓夢を遊撃から二塁にコンバート。中堅・近本光司と1・2番コンビを組ませると同時に、遊撃には木浪聖也を据え、こちらは8番に固定。木浪が“恐怖の8番打者”として再三チャンスメイクしたことで、上位〜下位、どこからでも点が取れる切れ目のない打線が完成しました。

“静と動”、オーダーの組み方こそ対照的ですが、選手の適性をしっかり見極め、適材適所で起用。現有戦力を最大限有効に使おうという姿勢は共通しています。それもそのはず、岡田監督・中嶋監督はともに仰木彬監督の薫陶を受けているからです。

現役時代、オリックスの正捕手だった中嶋監督が“仰木直系”というのはよく知られていますが、実は岡田監督も、指導者としての歩みを始めたのは阪神ではなくオリックスなのです。岡田監督は3年前、自身のコラムにこう記しています。

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『オレは現役、コーチで計9人の監督の下で野球をやった。その中で一番、影響を受けたのが仰木さんやった。データを分析するそのスタイルがオレの采配にも生かされている』

~『週刊ベースボールONLINE』2020年10月16日配信記事 より

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岡田監督は現役時代の1993年オフ、体力的な衰えを理由に阪神を自由契約となりました。当時36歳。「まだまだやれるのに……」と思っていたところへ「ウチへ来ないか?」と声を掛けてくれたのが、当時オリックスの指揮官だった仰木監督でした。

岡田監督は誘いを受け、現役最後の2年間(1994年〜1995年)、オリックスでプレーし引退。最終年の1995年は、イチローの活躍でオリックスが球団買収後初のリーグ優勝を果たした年でもあります。出場試合数こそ少なかったものの、常に勝つことを第一に考え、準備を怠らなかった岡田選手の姿勢はチームに好影響を与えました。

仰木監督が岡田選手をオリックスに呼んだのは、集客上、関西のスターが欲しかったという事情だけでなく、野球に対する取り組み方も買っていたからです。試合後、仰木監督と岡田選手が酒を酌み交わしながら、試合戦術について長時間語り合うことも多かったそうです。

仰木監督は、岡田選手の引退後も「ウチで指導者の勉強もしていけ」とオリックスの2軍助監督と打撃コーチを任せました。岡田監督は2年間修行したあと、1998年から阪神に指導者として復帰。2軍助監督、2軍監督、1軍コーチを経て、2003年オフ、勇退した星野仙一監督の後任として1軍監督に就任。監督2年目の2005年に鉄壁のリリーフ陣、ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之の「JFK」トリオを編成し、チームを優勝へと導きました。

2軍監督時代から、1軍監督に就任したときのことを想定して指揮を執っていたという岡田監督。そのバックグラウンドには間違いなく、仰木流の選手起用術があります。再び、コラムからの引用です。

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『阪神しか知らなかったオレは、オリックスに移り、エッと驚くことの連続やった。例えば先発メンバー。仰木さんは固定しないのよ。毎試合、メンバーが違う』

『でも、これは直感で行っているものではなく、仰木さんはデータを調べ、分析して、答えを導き出していたわけよ。いい加減に思われたかもしれないけど、そこには根拠があり、それが正解であったということを結果で示した。それがオレには衝撃であり、野球に対する考え方を変えてくれた恩人だった』

~『週刊ベースボールONLINE』2020年10月16日配信記事 より

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仰木監督同様、岡田監督もデータを重視。かつ2軍の試合もくまなくチェックして、選手の入れ替えをフレキシブルに行っています。そのスタイルはまさに“仰木流”です。

岡田監督とオリックスの縁は、仰木時代だけではありません。2008年、阪神は独走状態だったにもかかわらず、巨人に最大13ゲーム差を逆転され優勝を逃しました。同年夏の北京五輪に派遣した主砲・新井貴浩が故障したことも大きく響きました。岡田監督は責任を取って辞任。2009年オフ、解説者だった岡田氏に監督就任をオファーしたのがオリックスでした。

当時のオリックスは、仰木時代とはうって変わって低迷期で、何度も最下位に沈む弱小チームになっていました。球団フロントは、優勝経験のある岡田監督にチームの立て直しを依頼したのです。

意気に感じて、古巣からのオファーを引き受けた岡田監督。しかし、阪神の選手たちと違って、当時のオリックスナインは負けグセが染みついていました。岡田監督はまずそこから改革しようと、選手たちに厳しく接し、コーチ陣も容赦なく叱り飛ばしたそうです。しかし選手たちは岡田監督のテンションについていけず、次第に溝が深まっていきました。

低迷から抜け出せないまま迎えた3年目、2012年のある日、岡田監督は主力選手たちを宿舎の部屋に呼び出し、こう問いただしました。

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『「お前ら、今、どんな気持ちで野球をやってる?」と聞いたんよ。そしたらいわれたもん。「監督が怖くて、みんな萎縮して打てません」 そらショックよ』

~『現代ビジネス』2012年11月9日配信記事より 岡田監督の証言(当時オリックス)

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「自分がこれまでよかれと思ってやってきたことは、まったくのムダだったのか……」と心が折れてしまった岡田監督。この年、シーズン最終戦を待たずに解任されるという屈辱を味わいました。

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『試合に臨むために球場入りしたときに、紙を渡されて、それでおしまい。私には理解できないやり方で、ここに至った理由を聞くのも、もうアホらしく、何も聞かなかった』

~岡田彰布著『そら、そうよ』(宝島社刊)より

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三顧の礼で迎えられながら、辞めるときは紙切れ1枚でクビ。著書にわざわざ綴ったあたり、「いくら勝負の世界の常とはいえ、あまりにも礼を失していないか」という憤りが伝わってきます。

ただ、結果を残せなかったことは事実。選手の意識が昔とは違う以上、接し方も変えなければいけない、と気付きます。阪神監督復帰にあたって、「若い選手が多い阪神で、65歳の監督がうまくコミュニケーションを取れるのか?」と危惧する声もありましたが、岡田監督はまず自分を変えました。上からものを言うのではなく、ときには選手の側に降りていくよう接し方を変えたのです。

前の監督時を知る記者たちから「岡田さん、変わったなあ」という声をよく聞いたのは、オリックス監督時の挫折があったからこそ。まだクライマックスシリーズもありますが、「ぜひオリックスと日本シリーズで戦い、“恩返し”をしたい」という思いを胸に、岡田監督は1985年以来、38年ぶりの日本一を目指します。

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