話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、12月17日に行われた自身の引退試合でダブルハットトリックを決めたサッカー元日本代表・中村俊輔氏にまつわるエピソードを紹介する。
日本代表で長年に渡って10番をつけ、2022年シーズン限りで現役生活にピリオドを打った中村俊輔。そんな希代のレフティの引退試合「SHUNSUKE NAKAMURA FAREWELL MATCH」が12月17日、横浜のニッパツ三ツ沢球技場で行われた。
最終所属クラブであり、現在コーチを務める横浜FCにゆかりのある戦友たちで構成された「YOKOHAMA FC FRIENDS」と、日本代表として一緒に戦った戦友たちで構成された「J-DREAMS」が対戦。中村は前半を「YOKOHAMA FC FRIENDS」でプレーし、ハットトリック。そして、「J-DREAMS」でプレーした後半もハットトリック。そのうち3つのゴールが代名詞であるフリーキックと、これ以上ない形で引退試合を演出。約1万5000人が詰めかけた三ツ沢球技場のサポーターを大いに満足させた。
そんな中村が引退試合の発表があったときから強調していたのが「三ツ沢球技場との縁」だ。
『三ツ沢はわたしにとって特別な場所です。小学生の時に初めて日本リーグを観戦し、木村和司さん、ラモス瑠偉さんにあこがれを覚えた場所。高校生の時にみんなで力を合わせて、全国高校サッカー選手権の出場を掴み取った場所。そして、1997年4月、Jリーグに初出場した場所。Jリーグ初ゴールとなったフリーキックを決めたのもこの場所でした。このスタジアムには数えきれないたくさんの思い出があります。引退試合を通じ、皆さんと一緒にこの場所で新たな思い出作りができたらうれしいです』
~中村俊輔 引退試合特設サイトより
80年代に日本代表の10番をつけ、フリーキックの名手として活躍した木村和司。同じく、日本代表で10番をつけ、Jリーグ黎明期に「司令塔」という存在を知らしめたラモス瑠偉。「フリーキック」と「司令塔」と「10番」……中村俊輔を体現する要素に出会ったのが三ツ沢球技場だったのも運命めいている。
そして、三ツ沢で決めたJリーグ初ゴールが代名詞の「フリーキック」だった点も実にドラマチックだ。
中村は以前のインタビューで、高卒でプロ入りした当時のマリノスDF陣には井原正巳、小村徳男、松田直樹といった超豪華メンバーが顔をそろえ、フリーキック練習でも彼らが「壁」になっていたと言及。そんなレジェンドたちに当てたら地獄が待っていると、壁の上を越えて落とすフリーキックの練習を何度も繰り返したという。
実際、1997年5月3日のベルマーレ戦で、Jリーグ初ゴールとなったフリーキックは、相手の壁の上を越え、鋭く落ちてベルマーレゴールを揺らすものだった。
以降、J1で決めたフリーキックの数「24ゴール」は歴代最多。そのこだわりについて、昨年(2022年)の引退会見で次のように語っていた。
『こだわりは、PKと同じくらいの感覚で決めるんだという意識はある。蹴ったら必ず決まるという状況をチームメイトに見せて信頼してもらう』
~中村俊輔引退会見(2022年11月10日)より
今回の引退試合後の会見でも、改めてフリーキックについて言及。印象的だったのは、フリーキックが代名詞になるまでの過程において、日本代表で意識した3人のライバルの存在があったこと。ライバルたちとの「差別化」を図る上で必要不可欠なものだったという。
『若いときは(小野)伸二でしたね。代表を意識したときはヒデさん(中田英寿)でした。それで、森島さんのような動きが自分に足りない、とか。その3人はいつも意識してやっていました。ヒデさんは雲の上の存在だし、伸二は自分にないものを持っていた。彼らにないものを磨かないといけないと意識していた。そのうちひとつがフリーキックだった』
~『日刊スポーツ』2023年12月17日配信記事 より
引退試合でも、まさに芸術的なフリーキックを決めた中村俊輔を見て、改めて思う。いま、日本代表は「歴代最強」と呼ばれるほど強くなり、好調を続けている。ゴールの奪い方も多種多様だ。それでも、フリーキックの場面を迎えたときのワクワク感、期待感に関しては、中村俊輔がいた当時の日本代表にはまだ及ばないのではないか。
引退試合の最後の最後まで「三ツ沢」と「フリーキック」にこだわり続けた中村俊輔の偉大さを改めて感じる引退試合だった。