番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【10時のグッとストーリー】
きょうは、お父さんが興(おこ)した陶芸の工房を受け継ぎ、オリジナルの有田焼(ありたやき)を創り続けている、女性陶芸家のグッとストーリーです。
焼物の街、佐賀県・有田町(ありたちょう)。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、武将が連れ帰った朝鮮の焼物師が、今からちょうど400年前の1616年に、この地で磁器作りを手掛けたことから、有田は日本における「磁器発祥の地」と言われています。
今年は、有田焼創業400周年のメモリアルイヤーなのです。
その有田で、「古鈴(こすず)陶芸社」を妹と二人で経営、焼物師として創作活動を続けているのが、大島紀子(おおしま・のりこ)さん・61歳。
もともと古鈴陶芸社は、紀子さんのお父さん・命二(めいじ)さんと、母方の伯父さんが一緒に始めた会社でした。
衣服用の装飾ボタンなど、小さいけれど精巧な技がつまった磁器は海外でも高い評価を受け、他の工房とは違って、輸出を中心に売り上げを伸ばしていました。
命二さんは、典型的な職人気質(かたぎ)で、普段も無口。黙々と仕事をする父の背中を見て育った紀子さん。
地元の高校を卒業した1973年春、京都の会社に就職しましたが、そこで思わぬことが。
第1次オイルショックの影響で、海外との取引が激減。売り上げのほとんどを輸出に頼っていた古鈴陶芸社は経営危機に直面します。
こうなったら、国内の販路を開拓するしかありませんが、それには人手が必要です。
・・・「紀子、有田に帰ってきてくれないか?」
父の電話に、紀子さんは会社を辞め、1年で地元にUターン、家業を手伝うことになりました。
陶芸の色付けも任されましたが、焼物師の家に生まれたとはいえ、磁器作りの手ほどきは何も受けていませんでした。
「父は根っからの職人でしたから、『自分で見て覚えろ』というタイプで、まったく何も教えてくれませんでした。見よう見まねで必死に覚えていきましたよ」
という紀子さん。経験を積んでいくうちに、色付けも身に付け、父親譲りの細かい表現もできるようになっていきました。
一方、父の命二(めいじ)さんは、その真面目な性格を買われ、地元の人たちの推薦を受けて有田町の町会議員を務めることになりました。お父さんには、町のために働いてもらおうと、紀子さんは、妹の幸代(さちよ)さんと一緒に、家業を継ぐ決意をしました。
紀子さんが得意としたのは、アクセサリーや箸置きなど小物系の焼物。他の焼物師が作るような作品を作っていても太刀打ちできないと考え、自分が得意なもので勝負することにしたのです。
「陶磁器は、大皿とか壺のような大きい物を焼いた方が、収益が大きいんですよ。だから、ウチがやっているような小物は、どこもやりたがらないんです」
紀子さんはあえてその「小物」に活路を見出しました。桃の節句には、小さなひな人形を作り、初夏には風鈴、暮れが近付いて来たら、翌年の十二支の人形を製作。そういった小さな作品に、丁寧に色を付けていきました。
「こういう細かい作業は、男性の焼物師には向いてないと思いますね」と笑う紀子さん。
だんだんリピーターも付くようになり、外国人のお客さんにも好評だそうです。
そんな紀子さんのために、父の命二さんは新しい工房を建てましたが、2002年に他界。
けっこうな借金が残り、新たに経営者になった紀子さんに、「女に何ができる」という態度で接する銀行もあったそうです。
「いつか頭を下げさせてみせる!」と奮起した紀子さん。妹の幸代さんと「やきもの工房こすず」を立ち上げ、紀子さんにしか作れない新しいユニークな作品を作っていきました。
現在は、佐賀県の地元産業の振興のために立ち上げた、盃(さかずき)を作るプロジェクトにも参加。有田焼の「ぐいのみ」に、イカやレンコンなど、佐賀の特産をイメージしたデザインを施した作品も作っています。
「有田焼は、売り上げがピーク時の6分の1になって、厳しい状況が続いていますが、そんな時だからこそ、父から受け継いだ『チャレンジ精神』を大事にして、新たな有田焼の歴史を作っていきたいですね」
番組情報
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