あの日、ロック後進国だった日本は、ロックがいかに自由でいかに美しいものであるのかを,初めて知ったのだった……。
1971年9月23 日、キョードー東京が主催した「Rock Carnival ♯7」という外タレの日本公演シリーズの一環だった。
その数日前から来日して、赤坂日枝神社裏にあった赤坂ヒルトン・ホテルに投宿していたレッド・ツェッペリンの日本滞在は、まさにロック・シーンの黒船来航のような騒ぎだった。
ボクが目撃した数多くのエピソードは、そのうち書くことになると思うけれど、まずは当時の彼らは現在のようなおじいさんではなく、20代の若さあったということを忘れてはいけない。
最年長だったジミー・ペイジでさえ、当時はまだ27歳の若さだったし、ジョン・ポール・ジョーンズも25歳。メンバーのなかでいちばんの暴れ者だったジョン・ボーナムとロバート・プラントは、たった23歳でしかなかった。
その若さで、彼らはすでに全世界のロック・バンドのトップに立っていたわけで、まさに血気盛んなお年頃だった。
また、当時の日本では、ロックを聴くのは不良だと言われ、学校や家庭でも子供にロックを聴かせないようにしているところが多かった。そんな状況だったから、社会人でロック・ファンという人はほとんど見かけることもなかったし、ロック・ファンの中核をなしていたのは、中学生から高校生たちという年齢層だったことも、現在の日本のロック事情とはかなり違っていた。
当時、オトナでロックを聴いているような人間は、ほとんどいなかったのだ……。
そんな1971年11月には、あの歴史的名盤『レッド・ツェッペリン Ⅳ』がリリースされることになるが、9月の来日の時点では、まだ日本のロック・ファンでその音を聴いた人はほとんどいない状態だった。
いまでもよく覚えているのだが、じつは初来日直前に、このアルバムの見本盤がごく少数だけできてきて、限られた関係者だけに配られていた。当時、日本盤に封入されていた歌詞カードの歌詞は、日本のレコード会社が在日外国人(英語が母国語の人とは限らない)に聞き取りを発注して作っていたために、かなりの割合で間違っていることが多かった。
逆に言うならば、日本以外の国で、歌詞カードが入っているレコードを発売している国はなかったのだ。だから、たとえ間違っていることが多かったとしても、レコード会社のディレクター諸氏は、その精度をあげようと、英語圏が母国の外国人を探し求めていたのだ。そんな時代背景のなかで、『レッド・ツェッペリン Ⅳ』は、レコードの内袋に「天国への階段」の歌詞が、最初から印刷されていて、日本盤もそういう仕様にするようにという指示がされていた。
それまで歌詞をレコードに封入することのなかった彼らから、特別に指示があったということだけでも、この「天国への階段」という曲が、彼らにとって特別な存在であることを物語っていた。
1971 年9月23 日午後6時を少しまわって始まったレッド・ツェッペリンの初来日ツアーの初日は、3枚目のアルバムのオープニングを飾っていた「移民の歌」だった。
この日、ボクはアリーナの2列目、ジミー・ペイジのまえあたりの席だったが、それまで聴いたこともないような爆音がスピーカーから吐き出された瞬間に、背後から突き飛ばされるような衝撃を受けて、まえの席を乗り越えて、ステージと客席の間にもうけてあった空間に押し出されていた。
ロバート・プラントのハイトーン・シャウトが響くなか、ふと振り返った目に飛び込んできたのは、血相を変えてステージ目掛けて突進してくるファンの群れだった。完全に目がイっちゃっている人たちが、こちらを目掛けて突進してくる様子は、じつに恐ろしかったので、ボクはいったんその場から少し下がり、パイプ椅子の上に立ってライヴを観ることにした。
あの短い1曲が演奏されている間に、ステージ直前のアリーナの空間は、まるで戦場のような混沌状態におちいっていた。
その当時のライヴ・メニューだと、一呼吸おいて「ハートブレイカー」が演奏されるはずだったのだが、この日はジミー・ペイジのギターの弦が切れるというアクシデントが起こって、弦を張り替えている間をロバート・プラントがMCでつなぐという、ちょっと珍しい展開だった。
もう、そこからはまさに狂乱状態で、いかにもZEPらしいライヴがくり広げられたのだが、3枚目のアルバムに収録されていた「アウト・オン・ザ・タイルズ」のイントロが響き渡って、観客がどよめいた瞬間、ブレイクに続いて、まだリリースされていない4枚目のアルバムのオープニングに収録されていた「ブラック・ドッグ」へとなだれこんでいった。
複合リズムを使ったこの曲は、ただエイトビートでのろうと思っても、思うようにのれないという、ユニークな楽曲で、初めてそんな曲にライヴで出会った武道館の観客たちは、リフが演奏された瞬間に凍りついたかのように動きを止めたのだった。
お客さんが期待していた曲をイントロでぶった切って、のりにくいリズム・パターンの曲をぶつけてくるという発想は、まさに若くて柔軟性にあふれた頭脳から出てくるアイディアに他ならない。しかも、続いて披露されたのが、ヴァイオリンの弓でレスポールを弾くというパフォーマンスで有名な「幻惑されて」だった。ジミー・ペイジの弓の動きに合わせて、ギターの音が飛びまわるようなPA処理も、それまでの日本のロック・コンサートで出会ったことのないもので、その同期の見事さにひたすら驚かされたことを記憶している。
そして、この有名なパフォーマンスを堪能したあとに演奏されたのが、まだ日本では知られていなかった「天国への階段」だった。
イントロのギター・アルペジオとオルガンのアンサンブルは、それまでに親しんできたZEPサウンドとはまったく違っていたし、展開につぐ展開によって、壮大に広がっていくダイナミックなこの曲は、初めて聴いた人たちの耳を釘付けにしてしまうほどのインパクトにあふれていた。
ライヴ中盤では、アコースティック・セットで2曲を披露。このアコースティック・セットを取り入れたステージングというのも、それまでに日本の観客が出会ったことのないものだったので、ZEPを単純なハード・ロック・バンドだと思っていた観客のなかには、このときこそトイレタイムとばかりに、トイレに駆け込んだ人もいた。
とにかく、ジョン・ボーナムのドラム・ソロもウワサ以上の迫力だったし、「胸いっぱいの愛を」からメドレーで演奏されるロックン・ロールの名曲の数々も、日本でライヴ演奏されるのは初めての曲が多かった。
今回は初日のライヴをちょこっとつまんで書いてみたが、ライヴとはレコードで聴ける曲をそのまま演奏するものだと思っていた日本のオーディエンスに、レコードとぜんぜん違う演奏を聴かせるのもライヴの魅力だということを、ストレートに伝えてくれたことや、まだリリースされていない曲でも、ライヴで演奏することで曲を成長させるという、ジミー・ペイジの音楽哲学をはっきりと見せてもらったような画期的な一夜だった。
この9月23日のレッド・ツェッペリン初来日公演で、日本のロックは大きな衝撃を受けて、その後のシーンが作られていくことになる。
そういう意味では、9月23日こそ、日本のロックが変わった日として記憶されるべきかもしれない。
【執筆者】大野祥之