高嶋)今週の土曜日3月11日あの東日本大震災から6年を迎えます。
そこで今週1週間のやじうま好奇心の時間では、ニッポン放送報道部の記者が自らその足で被災地を訪れて、それぞれの視点で「被災地の今」についてリポートしてくれます。
今日は上村貢聖解説委員の「6年経ってもはっきりしないあの日の大川小学校の避難行動」です。
3時37分学校には2階の天井まで10㍍近い津波が来て、児童74人教諭10人の84人が亡くなった石巻市立大川小学校。
まだ4人が行方不明のままです。
大川小学校は去年保存が決まり、毎日のように研修、見学者が訪れています。
裁判も起きていて、23人の児童の遺族に対して仙台地裁は勝訴を言い渡しましたが、県と市は控訴しています。大川小学校の映像を見たことがある人も多いと思いますが…
正面に校庭があって、右側に急な山があります。左側に円形の校舎、奥に長方形の校舎、というロケーションです。訪れた人は「あの山(傾斜35度)は小学生は登れない。」というよく書き込みをしていますが、その山の手前には、交流会館や商店、住宅があって確かに登りづらかったんです。
しかし、椎茸栽培をしていた山は奥の緩やかな斜面(9度)でした。津波は来ていたんですが、子供でも十分上がれる山だったんです。親御さんたちは大川伝承の会を作って、遺族が月一回何があったかを説明をしています。
大川伝承の会代表で小学6年生の真衣さんを発見したときの様子を話す鈴木典行さんが娘さんを発見した時の様子を話しています。『脚が見えたんです。みんなも掘ってくれて。そのかかとに「真衣」って書いてあった。
「真衣だ!」と叫んだ。メガネをかけて、ヘルメットもかぶって。ほっぺをたたけばおきるんじゃないかって。私も「真衣、真衣」って。でも目を開ける事は無い。みんなここで悲しい想いをして子供たちとの別れを感じました。』―――海から4キロ離れていて、まさか津波が、高さ10㍍の高さも来るとは、普通の感覚では判断しないとも思うんですが…
大川小学校は海抜1.2メートルのところにあって、そばに北上川があり、新北上大橋という大きな橋があります。その橋に向かって、壊れた家や倒れた木がどんどん積み上がっていって、大きな塀のようになってしまった。そこに津波が来て、行き場を失って大川小学校にドーンと流れ込んだ。そのあと、陸地を伝ってまた津波が来て、大川小学校の校庭で渦を巻いたと言われているんです。
ですから、子供たちは助かることが出来なかった。まだわからないことが、流されるまでの50分間。
市の教育委員会は聴き取り調査をしていますが、まだ全く分からない。
生き残った先生が1人いるんですが、遺族の皆さんは、その先生が話してくれたらどんなことがあったのかわかるんじゃないかと言っています。それを知りたいわけです。
その先生は、病気になったということで遺族の前に出てこないし、報告書を1回書いただけ。山に逃げて助かっているんですが、先生は“山は木が倒れて危なかった”と書いています。
一方で、この先生は「山に逃げよう」と提言をしているんです。ところが他の先生に提言が却下されています。前の学校では防災担当をしていて、この前の学校は生徒たちは裏山に逃げて全員助かっている。先生は危ないということは分かっていたものの、自分の提案が通らなかった。そして自分は山に逃げて助かっている。若い男性の先生です。非常につらい立場に置かれていますが、どういう状況だったかぜひ話をして欲しいと。5月に助かった子供たちに聴き取り調査をしているんですが、子供たちが「山に逃げよう」と言っているんですが、この証言は報告書には載らず、「子供たちはゲームをしていた」と載っている。しかも聴き取り調査をした紙は捨てました、となっています。
何があったのかはいまだにわからないという状況に置かれています。
3月7日(火) 高嶋ひでたけのあさラジ!「三菱電機プレゼンツ・ひでたけのやじうま好奇心」より