今年も3月11日がやって来ます。
そう、2011年3月11日…東日本大震災から6年が経とうとしています。
あの日、午後2時46分。株式会社メテックス代表取締役の田中廣さんは、東京にあるビルのオフィスで迎えました。
「出るな!」
揺れがどんどん酷くなる中、思わず外に飛び出そうとする社員たちを大声で制止しました。
むやみに外に出ると上から落ちてくるものに当たって怪我をしてしまうこと、オフィスビルは耐震構造がしっかりしていることを知っていたからです。
そしてラジオから多くの情報を得ました。次にどんな行動をとればいいか考えるためです。
田中さんは、22年前の1995年1月17日、阪神・淡路大震災で被災した一人です。
地震が少ないと言われていた近畿地方が、真冬の早朝、突然大きな揺れに見舞われました。
兵庫県芦屋市の自宅で寝ていた田中さん。
気が付いた時は、揺れに任せてベッドの上を転がるしかありませんでした。
幸い、ベッドを壁にピッタリつけて2台並べていたので、床に落ちることもなく、それ以上に、倒れてくる家具も周りにありませんでした。
今までに経験したこともない大きな地震。
大阪が無くなってしまったのではないか…そんな不安がよぎりました。
ライフラインが止まってしまったため、テレビは全く使えず、家には電池が入ったラジオもなかったので、地震の被害がどの程度なのか、被災地域はどこなのか…知る手立てが全く無く、不安が募るばかりでした。
その時気がついた唯一の情報源、それは、駐車場に止めてあった車のラジオでした。そのラジオから、被災地は兵庫・大阪・京都に及んでいましたが、神戸の被害が特に甚大であったことなどを知ります。
運良く田中さんの自宅は倒壊を免れ、そのまま被災生活を送ることができました。
いつもの自分の場所に居られるのは本当にありがたいことでした。
数日間続いた余震が落ち着くと、今度は生活するためのいろんなことが見えてきました。
電気はなんとかその日のうちに復旧しましたが、ガスと水道は40日以上も止まったままでした。
田中さんのお宅では、たまたまお風呂の水を溜めていたおかげで、その水でトイレを流したり、顔を洗ったり、体を拭くタオルを濡らしたりすることができました。
さらに不幸中の幸いは、ペットボトルの飲み物やお菓子などの食料がだいぶ家にあったことでした。実は、前日に田中さんの家で地域の会合が開かれ、その時の残りが沢山あり、近所の人たちと分け合うことができました。
被災後、最初の給水車が来てくれたのは翌日。後で知ったのですが、早い方だったようです。
ペットボトルや鍋・薬缶などを持って並びました。そのうち知り合いから大きなポリタンクをもらいましたが、水を入れると重過ぎて運べません。家中を探してキャリーカートを見つけ、ポリタンクを括り付けて水を運びました。必要に迫られて出て来た知恵と工夫でした。
お風呂に入れたのは1週間から10日位経ってからのことでした。昼間は道路が交通規制されていたので、解除になった夜、家族みんなで車に乗って大阪の銭湯に行きました。温かいお風呂に入れることがどれだけ恵まれたことなのか…身をもって知りました。自衛隊のお風呂が地域に来てくれたり、近くの温泉が解放されたりしたのは、地震から2週間程経ってからです。
JRが復旧し大阪の会社に向かうことができたのは約1週間後。
今でも一つ一つはっきり昨日のことのように覚えています。
阪神・淡路大震災の体験から、田中さんが強く感じたこと…それは「備えの大切さ」。
寝室に倒れてくる危険なものがなかったこと、ラジオで情報を仕入れられたこと、お風呂に水を溜めていたこと、食料があったことなど、偶然にも田中さんはその備えがある程度はできていました。
特に、情報を得られたことは重要でした。
今の状態がわかり、逃げるべきなのか?残っていいのか?逃げるならどの方向なのかなどがわかり、落ち着いた行動がとれたのです。その体験が東日本大地震の時も活かされれました。
物を備えることと、知識を備えることが減災につながったのです。
そして、阪神・淡路大震災から5年程が経ち、田中さんは”あるモノ”を見つけたことをきっかけに、自分の体験と相次ぐ災害の教訓から本当の意味で役に立つグッズを集めた非常用持ち出しバッグ=防災セットを作ることにしました。
※この話の続き 3つの必要なもの~それは“食料・灯り・情報”「ニッポン放送オリジナル本当に必要な26種類の防災セット」製造秘話その② はこちら>
※更にその続き 非常用持ち出しバッグは使われないほうがいい「ニッポン放送オリジナル本当に必要な26種類の防災セット」製造秘話その③ はこちら>
レポート:ひろたみゆ紀
ニッポン放送オリジナル 本当に必要な26種類の防災セットはこちらから>