現役引退を自身のブログで発表したのは昨晩、22時55分でした。
「フィギュアスケート選手として終えることを決断いたしました」。
来年の平昌五輪を目指し、競技を続けてきたものの、やはり昨年12月の全日本選手権で12位と予想外の惨敗を喫したことが、現役にピリオドを打つ要因になったことは明らかです。小学生時代にもなかった2桁順位に、最も驚いたのは浅田本人でしょう。
6勝をあげ、休養した2014年シーズンを除き、2004年から表彰台を外したことがない。それがよもやの結果となって表れたのですから、「次に行こうという気になれない」と発言した気持ちが手に取るようにわかりました。ただ、すぐさま引退を表明するのではなく、ここまで伸びたのは、五輪出場へのウルトラCが用意されたから。
ISU(国際スケート連盟)が特例措置で、浅田の五輪出場を後押しする動きがあったそう。2005年グランプリファイナルで、女王のイリーナ・スルツカヤを破り、日本人2人目の優勝を達成しました。日本は当然のこと、世界中に浅田ブームを巻き起こしたのです。もちろん、翌2006年のトリノ五輪の有力候補となったはずですが、「開催前年の6月30日までに15歳」という年齢制限に87日足りない。世論の後押しがありながら結局、浅田の五輪出場は不可能になりました。
この借りを平昌で返すのが、ISUのシナリオだったと言われます。ところが、3月の世界選手権で日本は大不振。3大会続けた出場枠が、3から2へ減ってしまった。いくらなんでも、これではプッシュができない。「幻になった」とある関係者は話しています。
ブログでは「フィギュア人生に悔いはありません」とも綴られていました。5歳からスケートをはじめ21年間、常に全力勝負。母、匡子さんのサポートを受け、二人三脚でトップ選手の座を手にしています。しかし、11年12月に急逝。48歳という若さでした。精神的な強さを増したのは、この悲しみを乗り越えたから。それまでは、匡子さんに任せていたものを、すべて自分で行い、決断。今回の引退も自身が考え抜いて出した結論でした。
通常、女子のフィギュアスケーターは20代前半で引退が既定路線。浅田も笑顔の裏には、慢性疲労による腰痛や、左ヒザ痛などが今シーズンは特にひどかったそうです。それが原因で、自身の代名詞、トリプルアクセルを跳ぶことができない。演技力で補おうとしたものの、それもかなわなかった。
この人がいたからフィギュアスケートが国民的な関心事になったといっても過言ではありません。国内はもちろんのこと、国際大会でも多くの日本企業がスポンサードを行ったのは、浅田がいたからこそ。
「この先も新たな夢や目標を見つけて、笑顔を忘れずに、前進していきたいと思っています」。
笑顔がトレードマークのヒロインは、伝説になりました。
4月11日(火) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」