1960年代前半の時代、アメリカ西海岸ではサーフィン/ホット・ロッド・ミュージックの一大ブームが起き、カリフォルニアの若者たちを夢中にさせていた。一番人気は、音楽の天才ブライアン・ウィルソンを擁するグループ、ビーチ・ボーイズ。彼らはその高い音楽性を武器にブームが収束した以降もポップ・ミュージック・シーンで確固たる地位を築いてゆき、カリフォルニア文化を象徴する偉大な存在となっていった。
そんなビーチ・ボーイズと、サーフィン/ホット・ロッド・ブーム真っ只中の時期に人気を二分していたのがジャン&ディーンだ。ジャン・ベリー(1941年生まれ)とディーン・トーレンス(1940年生まれ)という高校のクラスメートによって58年に結成されたデュオは、はじめはホワイト・ドゥーワップをハモって人気者となり、「ジェニー・リー」「ベイビー・トーク」などの全米ヒットも放っていたが、やがてビーチ・ボーイズの登場に触発されてサーフィン・ソングを歌いはじめる。ブライアン・ウィルソンが書いた「サーフ・シティ」が63年夏に全米ナンバーワンの大ヒットを記録すると、ここから人気が急上昇。「ドラッグ・シティ」「デッド・マンズ・カーヴ」「パサディナのおばあちゃん」といったナンバーが立て続けにヒットして、地元で開催された彼らのライヴは、女の子たちの黄色い歓声で歌や演奏がまったく聴き取れないという、あのビートルズの初期ステージに匹敵するほどの熱狂ぶりだった。65年にリリースされたライヴ・アルバム『コマンド・パフォーマンス:ライヴ・イン・パーソン』では、人気絶頂期にあった彼らのステージを楽しむことができるので、興味のある方は一度聴いてみてほしい。
そんなジャン&ディーンにあって、音楽面のイニシアティヴを握っていたのがジャン・ベリー。ブライアン・ウィルソンほどではなかったが、彼もクリエイティヴな才能の持ち主で、自分で曲を書き、レコーディングをプロデュースしていた。デュオの成功は、カリフォルニアの若者文化を熟知し、そのトレンドをいちはやく取り入れた作品を世に送り出したジャンのセンスあってこそだったといえるだろう。
そんなジャン・ベリーが予期せぬ悲劇に見舞われたのは、66年4月12日のこと。ヒット曲「デッド・マンズ・カーヴ」の舞台にもなったビヴァリー・ヒルズの有名なカー・クラッシュ・スポットからほど近い場所で起きた自動車事故により、およそ2ヶ月もの間、意識不明の重体となってしまう。その後、奇跡的に意識を取り戻したジャンは、懸命なリハビリの末に現場復帰。後遺症が残ったために、以前のようにコンサート・ツアーを行なうことは出来なくなってしまったものの、ジャン&ディーンとしてのレコード制作は続け、数多くのシングルやアルバムを発表している。
実は、このときの交通事故はジャンにとって二度目のもので、一度目は映画『イージー・カム、イージー・ゴー』の撮影中に左足を負傷。65年のアルバム『フォークン・ロール』のバック・カヴァーには、左足を包帯で巻き、松葉杖をついたジャンの痛々しい姿を見ることができる。
映画『アメリカン・グラフィティ』でも描かれていたように、50年代から60年代にかけての若者文化では、車がとても重要なアイテムだった。ホット・ロッド・ソングが流行したのも、そうした背景によるものだが、サーフィン/ホット・ロッド・ブームの申し子といえたジャン&ディーンにとって、そのキャリアを花開かせたのも、つまずかせたのも、いずれも車がらみだったことは、ある意味、運命であり、ジャン本人にとっては本望だったといえるかもしれない。
なお、ジャン・ベリーとディーン・トーレンスはその後も元気に活動を続け、73年には、ジャンの事故後、はじめてふたり揃ってのライヴ・パフォーマンスを行なっている。ジャンは2004年3月26日に亡くなったが、ディーンのほうは77歳になる現在も健在で、サーフ・シティ・オールスターズによるステージで往年のヒット曲を披露している。
『コマンド・パフォーマンス:ライヴ・イン・パーソン』『フォークン・ロール』写真提供:目瑠璃堂
【執筆者】木村ユタカ(きむら・ゆたか):音楽ライター。レコード店のバイヤーを経てフリーに。オールディーズ・ポップスを中心に、音楽誌やCDのライナーに寄稿。著書に『ジャパニーズ・シティ・ポップ』『ナイアガラに愛をこめて』『俺たちの1000枚』など。ブログ「木村ユタカのOldies日和」もマイペース更新中。