平成思い出スポーツ実況は1992年ヤクルト優勝 【ニッポン放送山田透アナウンサー】

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いよいよ平成が終わる。そんな平成を、『スポーツ実況』という形で喋り続けている ニッポン放送スポーツ部のアナウンサー。この平成の30年間を喋り続けてきて、思い出の実況もある。そんなスポーツ部のアナウンサーに、平成の思い出の実況を聞いた。

平成思い出スポーツ実況は1992年ヤクルト優勝 【ニッポン放送山田透アナウンサー】
■今回は、山田透アナウンサー
1983年、ニッポン放送入社。ショウアップナイター、メジャーリーグ中継など担当。1992年、バルセロナ五輪では、民放ラジオ代表として開会式などを担当。最近は、ゴルフとガーデニングが趣味。

■大喪の礼・即位の礼は、沿道から隊列をレポートしていた

- 透さん、1989年の大喪の礼・即位の礼は、どこの担当だったのですか

あの時は、武蔵野陵(むさしののみささぎ)という、昭和天皇がお眠りにつくお墓の担当だった。当日は、昭和天皇を乗せた車が到着するのは、10:30頃という事だったんだけど、「メディアは6時までに入りなさい」と言われてので、前日に神奈川県に泊まって、朝、電車とタクシーを乗り継いで、現場入りしたんだ、その時間以外は、全てシャットアウトだったからね。
冷たい雨が降っていたよ。朝早かったから、朝飯も食べていなくてさ、お弁当で、紐を引っ張ると、暖められる奴あったでしょ、それをもらって、先に着いていたラジオカーの中で食べたのを覚えてるよ。
で当時の皇太子殿下、今回退任される天皇陛下がいらっしゃって、その様子をリポートをしたんだ。

‐ 即位の礼は、どこにいたんですか

いやその前にさ、新元号の発表があったんだけど、その時は総理官邸の担当だった。
官邸の大広間に、担当記者陣が座っているんだけど、ラジオやテレビは、2階のバルコニー席からリポートをしたんだよ。
で、小渕恵三官房長官が、『新しい元号は平成です。』って発表をした姿を、この肉眼でしっかり見た。これが、《私の平成》の始まりでしたね。あれから30年かと思うと、感慨深いよ。

‐ そして、新元号ですよ。

そうなんだよ、個人的に使ってもらいたいのは、「元気」の「元」と言う字。まあ、思っているけど、どうなるかは判らないね(笑)

平成思い出スポーツ実況は1992年ヤクルト優勝 【ニッポン放送山田透アナウンサー】

プロ野球 ヤクルトがペナント優勝で野村克也監督を胴上げ 撮影日1992年10月10日 提供産経新聞

 

■ 山田透アナウンサーが平成、思い出に残る実況は

‐ 透さんの中で、《平成》の思い出に残る実況ってなんですか?

いろいろ考えたんだけど、僕、30歳で転職をして、ニッポン放送に来たんだよね。
ニッポン放送のアナウンサーは、昔から、球団担当制をとっていて、入った時の担当は、ヤクルトだった。宮田先輩がいて、山田がいて、ヤクルトは、2人でずっと担当していたんですよ。

で、当時のヤクルトは、すっごい弱くて、監督も、直ぐ変わってしまうようなチームだった。竹上四郎さんがやってダメで、中西太さんが監督代行をやったんけど、1か月で辞めて。
ピッチングコーチだった土橋正博さんが、監督代行の代行をやって、次の年から、正式に監督になった。でも、2年間やったんだけど結果が出なくて、それで1987年、関根潤三さんが、ヤクルトの監督に就任したんだ。
その時に入団したのが、栗山英樹(現・日本ハム監督)だとか、笘篠賢治とかなんだけど、関根さんが3年やって、その後、野村克也さんになる。

弱い、弱いヤクルトで、忘れもしないのは、シーズンの最終試合。ベイスターズ対スワローズで、勝った方が4位、負けた方が6位という最下位決定戦っていうのを喋った。流石にこの試合は、中継はしなかったけどね、それは忘れない(苦笑)

‐ 苦笑

ヤクルトで、一番強烈だったのは、平成4年・1992年10月10日、甲子園球場。ヤクルトが勝ったら優勝、で阪神が勝ったら、逆マジック1という試合があったんですよ。
で、その試合で、先発は、荒木大輔、ワンポイントで2番手加藤博人、3番手伊東宏光という投手リレーでヤクルトが勝って、優勝が決まった。14年ぶり、2度目のセリーグ優勝だった。あの弱かったヤクルトが、野村監督就任後、3年目で優勝した。

‐ 球団担当としては感慨深いですよね

で、その後なんだよ、問題は。
大阪の第一ホテルでヤクルト祝勝会があった。ラジオの中継、祝勝会の司会も山田透だったから、急いでホテルに向かってさ(笑)
祝勝会がスタートして「さあ、これから乾杯です...」って言ったと同時に、俺にビールをかける奴がいてさ、「ちょっと待った、ちょっと待った。乾杯をしてから...」なんて言ったけど、もうぐちゃぐちゃで、その後、仕切り直したのかも判らない、とにかくぐちゃぐちゃの祝勝会だった。
ビールでスーツ、ぐじゃぐじゃ、Yシャツダメ、臭いもとれないし、もう全部が着れない。そんな思い出がありますね。

‐ 祝勝会あるあるですね。

それから90年代は、ヤクルトが4回リーグ優勝した。
ホテルニューオータニのプールサイドで、祝勝会をしてさ、秦真司が、割れたビール瓶でふくらはぎを切って縫ったとかさ(苦笑)、そういう思い出は沢山あるんだけど、やっぱり1992年、ヤクルトが野村監督の元で優勝して、そして祝勝会をしたというのが、平成の思い出かな。

‐ あの頃は、祝勝会を生中継したり、選手もプールに飛び込んだり、いろいろありましたね。

そうそう、なんでプールサイドでやるようになったかと言うと、広岡監督、森監督時代の西武ライオンズが、東京プリンスホテルで祝勝会をやるようになったんだけど、その時、東プリのプールでやるようになった、ちょっと小さいんだけどさ。
それをヤクルトが真似をしてさ、ヤクルトが祝勝会をするニューオータニは、プールサイドが結構広くてね、でも時期は、11月だからさ、ホテルの皆さんが、プールの水を、33℃くらいに、生ぬるくしてくれていたんだよ。

‐ 試合中の祝勝会会場の担当アナウンサーは、ビールの本数、樽酒の数、お酒を飲む升の数、そしてプールの温度とかは、必ず伝えてましたね。
でも、祝勝会の司会を、アナウンサーがやるのは、珍しくないですか?

いやいや、最初はアナウンサーだったんだよ。最近は、女性キャスターとかも来るけどね。
最近は、頼まれても、「もう若い人でやってください。無理(苦笑)」って断っているけど、
やりたがる奴がいるんだよ、いっぱい。一回やってみたいんだよ、あれは。

‐ タイミングが合わないと、できないですもんね。

そう。優勝実況ゲームも、タイミングだから。
実は、真中監督の時、日程のタイミングは、ほんとは俺(の実況予定)だったんだよ。だけど、雨が降って次の日になっちゃって、で、次の日は煙山なんだよ(苦笑)、「スライドさせてくれよ!」って思っいたけどさ(笑)

‐ 煙山さんも言ってましたよ、その話は。

そうなんだよ、だから、持ってるか、持っていないかっていう問題なんだよ。俺はもってない、そういうの。

‐ リーグ優勝に関しては、アナウンサーの勤務ローテーションによる所もあるし、シーズンの流れもありますね

レギュラーシーズンは、長そうで、短そうで、でもやっぱり長いな(苦笑)、ポストシーズンも、1か月あるからさ、昔に比べると、(アナウンサーも)野球に携わる時間が長くなった。
今年なんか、3月の半ばにメジャーが来て、オープン戦・開幕戦をやるじゃない。それから1週間後には、日本の開幕じゃない。取材陣としては、メジャーも見たいから、キャンプ取材も前半に行くだろうし、日本シリーズまで混み混みのスケジュールだね。その後は、日本代表・侍JAPANもあるし、もう大変だよ。

‐ オリンピック関連もあって、シーズンスケジュールの制作も大変ですね

そうだよ。スケジュールでいえば、これまでは、地方球場での試合の後は、移動日があったりしていたけど、これからは、3連戦の頭を地方でやって、翌日は、午前中に移動して、夜には、自分のホームスタジアムで試合をする。なんて事もやるからね。
フロントに言わせれば、《飛行機ですぐだよ。》なんていうけどさ、(試合を)やる方にとっては、大変だよ。
だから、俺なんかは、そこを見ている、スケジュールのね。厳しい移動がどこに入っているのか、これはポイントになるよ。

平成思い出スポーツ実況は1992年ヤクルト優勝 【ニッポン放送山田透アナウンサー】

バルセロナ五輪 開会式 日本選手団入場 =1992年7月25日、スペイン・バルセロナ 撮影日1992年07月25日 提供産経新聞

■ 1964年の東京オリンピック開会式の実況を、丸暗記した

‐ 野球以外で、思い出にある実況はなんですか

そりゃ、オリンピックの開会式だよ。ニッポン放送で、オリンピックの開会式中継をやったのは、俺しかいないんじゃない。
開会式を中継するのは、俺の夢でもあったから、それが達成できて、バルセロナのオリンピック・スタジアムで、車椅子の方(パラリンピックのアーチェリー選手、アントニオ・レボージョ)が、最後の点火担当で、車椅子に乗たまま、矢の先端に聖火をつけて、アーチェリーで点火したんだよ。

‐ オリンピックの開会式は、色々な国の事を調べないといけないですね。

そのために、3カ月勉強したよ、国の事。当時は、169の国と地域だったから、この国の国旗の色は何色で、どういう意味がある、産業は何が有名なのか、過去の歴史の中で、どんなゴールドメダリストがいたのかとか、それを調べないと、開会式の中継は出来ないからね。
そのために、当時は、野球のローテーションを、3カ月外してくれた。

‐ 3カ月は長いですね。

そう。今だったら、全然そんな事してくれないけど(苦笑)、もうオリンピック専念だよ。
日本代表が合宿してる色々な所へ取材に行くって、レスリングだろうが、体操だろうが、自分が喋る競技が、何になるかわからないからね。それはやっぱりやらなと。

‐ 当時は、インターネットなんてありませんでしたからね

全然ない。実はその時、オリンピックを中継するグループ・ジャパンプール(今でいうジャパンコンソーシアム。各局から、スタッフを出し合って、共同で中継を担当するグループの事)
のメンバーに、1台づつパソコンが支給されたんだよ。

‐ えー凄い!バブルですね(笑)

ところが、誰も使い方知らないわけさ(笑)、そんな最先端なもの。《さっぱりわからない。こりゃあ、なんなんだよ!》って。
まあ、返還しなくてよかったから、もちろん今はどこかになくなっちゃったんだけどさ(苦笑)

‐ どんな競技を実況したのですか

橋本聖子さんの自転車、女子3000m個人追い抜きとか、ブブカが負けた棒高跳びとかを喋ったね。あと、その時に、初めてオフチューブ(TV映像を見ながら、喋るとシステム)も、体験したよ。

‐ オリンピックは、色々な競技を実況しなければいけませんが、全部の競技を頭に詰め込んで行くんですか

いや、俺は野球が多かったから、それはなかった。
野球が、初めて正式種目になった大会で、それまではオープン競技だったんだよ。日本は、ロスで金メダル、ソウルで銀メダル、バルセロナでは、銅メダルだった。「野球王国」と言われたキューバが金メダルだったね。

‐まだ、ノンプロが出場していた時代ですよね

そうそう、プロはいない。バルセロナの時は、エースが日本石油の小桧山雅仁という投手で、後に、ヤクルトに入団した伊藤智仁が、4番手くらいだった。
で、そのチームに、唯一、学生で選ばれたのが、小久保裕紀だったね。青山学院大の3年かなんかで、6番を打っていた。

‐ オリンピックの開会式を喋るのが夢だったそうですね。

そう。1964年の東京オリンピックの時は、中学一年生だったんだけど、ラジオで開会式を聞いていた、当時はジャージなんてなかったから、選手はみんな、綿パンだったんだよ。で、東京オリンピックが終わった後に、オリンピックのハイライトレコードっていうのが発売されたんだ。

‐ 記録的な意味も含めた奴ですね。最近は映像みたいですけど。

実況は、NHKの鈴木文弥(すずきぶんや)さんかな?その開会式の実況を丸暗記したもん。

‐ 丸暗記ですか!

《世界中の青空を、全て集めたような、今日の東京の空~》から始まって。
あのフレーズだって、昔のNHKのアナウンサーは詩人だったからさ。いま、詩人もどきがいっぱいいるんだよ。カッコイイことを言おうとする訳。でも、自分が詩人ではないのに、そういう事をやると、「作っているな!」っていうのがバレバレな訳。
だったら「こんにちは、みんな。元気~」とか、日常会話で、中継に入りたいっていうが、俺の希望、ラジオはそういうもんだと思っているから、《Heart to Heart》普段用語でいいよと。

だから、ちょっと人と違うとか言われるかもしれないけど、でも、伝えるという使命を受けた以上、型にはまった中継よりも、伝えたいという気持ちを、前面に出した方がいいんじゃないのかな?って、俺は思っているけどね。

 

平成思い出スポーツ実況は1992年ヤクルト優勝 【ニッポン放送山田透アナウンサー】

プロ野球 巨人キャンプ 巨人・長嶋茂雄監督(右)からノックをうける巨人・落合博満内野手 =平成6年2月3日 撮影日1994年02月03日 提供産経新聞

■ 落合博満のキャンプは、1人で黙々と...

ニッポン放送ショウアップナイターのTwitterでは、キャンプの最新情報をツイート
ショウアップナイター Twitter

‐ キャンプが始まりました。キャンプ取材は、どんな所を見ているんですか

若い時は番記者のように、毎日同じチームを見ていた訳よ。でも、いまは違う。キャンプの日数も少ないし、キャンプの練習を見に行ったとしても、若手中心だから。
キャンプの最初にやっている選手は、シーズン入ったら、そんなに出てこない。っていうのが、俺の考えだから(苦笑)

‐ 主力・ベテラン勢は、後半からですか

そう。シーズンが始まって出てくる選手は、3月10日過ぎ位からのオープン戦だね。
そこまで、どこで何をやっているか。

‐ 秘密練習ですか

昔のキャンプだったら、巨人時代の落合博満は、午前中は全然いなかった。一人で林の中を、駆け巡っていた。
これは、後で元木から聞いた話なんだけど。1人黙々と、隠れたテントの中で練習をしていたんだって。
バッティングマシンあるじゃん。そのマシンに対して、対峙して構えるんだって。対峙して、向かってくるボールをバットで、裁いていたんだって。そういう練習とかをやっていたんだって。

‐ あの、独特のバットコントロールは、そんな所から来ていたんですね。

マシンの球速が、どの位の速さかわからないけど、正面からくるボールを、バットで切るようにカットしていく。前に飛ばすんじゃなくてね、という練習もあったそうだよ。

‐ 剣で、剣を裁くようなイメージですね

そうそう、剣だよ剣。王さんも日本刀でやったけど、通ずるものがあるんだよ。天才は、あるんだよ。

だから、監督=御大将、将軍の器っていうのを感じる所があってさ。これまで、沢山の監督を見てきたから、勝てる監督さん、勝てない監督さんっていうのがあってさ、わかるんだよ。
だから巨人が優勝したかったら、落合博満を監督にすれば勝てると思うんだよ。やっぱり、器も監督の器なんだよ。
けどさ、巨人のユニフォーム着て、OBでもある訳だけど、それ以外に、色々な事もある。まだ、そこまで(監督)は手がとどかないな。もうちょっと、誰かわからないけど、ジャイアンツの権力者が、落合博満の才能を認める人がいたら、ひょっとして、無い話ではなかったかもしれないね(笑)

■ 巨人は、原全権監督で、優勝が至上命令で、大変なプレッシャーがかかる年

‐ 今シーズンの話なんですけど、オフの話題は巨人がさらいました

今年の巨人は、優勝が至上命令で、勝利至上主義で、原全権監督で、優勝というのを宿題として与えられた大変なプレッシャーがかかる年だよね。でも、人を集めても、優勝できるかは別問題だからね。

‐ 今年も沢山の選手が入りましたけど

でもさ、世間であんまり言われない(叩かれない)でしょ。最初は言われたけど。
だから、巨人が弱くなったっていう事だよ。世間は、人を集めても、勝てないんじゃないのって、思っているんだよ。

岩隈でしょ、中嶋でしょ、丸でしょ、炭谷でしょ。長野、内海がいなくなったけど、長野が残っていても、出番が無かったかもしれないしね。
去年は、ベテランの長野・亀井がレギュラーでやっていたけど、今年を考えると、、陽岱鋼、丸、外野かサードで、ゲレーロか岡本、中島がファーストか、途中からサードか、右の代打。セカンドは吉川、ショートは坂本、キャッチャーは、一応、小林置きながら、炭谷。阿部新ちゃんは、たまにはやるかもしれないけど、その位やって来るかもしれないね、

‐各ポジションに、2~3人の候補がいますね、競争が生まれるという。

そうだね。そうなんだよ、でも、そうなると、若い奴にチャンスが無いんだよ。
若い奴が、ベテランの争いをかき分けて、出てこないと。松原聖弥とかさ、足の速い奴がいるんだよ。

今年、鈴木尚広を走塁コーチにしたけど、鈴木尚広もさ、若い頃から付き合いはあるんだけど、「巨人出てみたらどうだ」って、「1番でレギュラーを狙える球団があると思うよ」なんて話をした事もあるんだけど、最後は、やっぱり巨人に残って良かったな、って事になっている。
でもさ、晩年は、ろくに野球をやっていないから。代走、走るだけだったからさ。そういうスペシャリストを作ると言っても、盗塁は簡単に出来ないからね。

そうすると、目指す野球は、広島野球だよね。フォアボールやエラーで出塁、内野ゴロか送りバントで、セカンド進塁。そこで、1安打で1点。そんなノーヒットで1点をとる野球を考えないとダメ、そういう所で、どん欲にならないとダメだね。

 

平成思い出スポーツ実況は1992年ヤクルト優勝 【ニッポン放送山田透アナウンサー】

【第15回みやざきフェニックス・リーグ プロ野球フェニックスリーグヤクルト対阪神】 4回、ヤクルト・村上宗隆が本塁打を放つ =宮崎県西都市の西都原運動公園野球場 撮影日2018年10月10日 提供産経新聞

■ ヤクルトの村上、使ってくれるかな...清宮は、4番に座って...

‐ 若手の選手はどうですか

注目している選手がいてね。ヤクルトの村上宗隆。九州学院高校出身の2年目。
去年のフレッシュオールスターに行った時、日本ハムの清宮幸太郎、広島の中村奨成とか、いろいろいた中で、集合写真を撮る時に、真っ先に監督の横に座ったんだよ、他の選手をかき分けて。
で、シーズンの終盤に出てきて、1本だけホームラン(プロ初打席初ホームラン)を打ったんだけど、まだ守りとか、野球とかはわかんないんだけど、今、青木と一緒にアメリカに自主トレに行っている訳、青木組に入っているんだよ。宮本ヘッドや小川監督は、彼を開幕、サード6番で使ってくれるかなぁ~...って、楽しみにしているんだよね。

‐ 他に若手で気になる選手は

後は、清宮が4番に座って、3割、30本、100打点打てるかなって。これが清宮の使命だから。
でも彼は、去年、3つケガしているんだよ。プロ野球、ケガしちゃ終わりだから。でも、清宮は期待したいね、残念なのは、東京のチームに居て欲しかったよね。

 

平成思い出スポーツ実況は1992年ヤクルト優勝 【ニッポン放送山田透アナウンサー】

[野村克也さん]ノムさん、今月末 83歳のお誕生日! ニッポン放送でロッテ×巨人戦 ノムさんの解説で中継中! 2018年6月15日 ショウアップナイターTwitterより

■ ノムさんは、喋るテンポが違うから...

‐ ショウアップナイターでは、野村さんとか、ベテラン解説者と、よくコンビを組んでいる印象があるんですが

そんな事はないよ。ノムさんは、年に1回位だろ。松本も、胡口さんもやった事あるよ。ただ1回だけで終わっちゃった。って所だろ。

‐ 野村さんは、透さんとは、多いですよね

それは、俺が転がすから(笑)
ノムさんは、普通の実況中継をやっちゃうと、喋らなくなるから。ノムさんは、喋るテンポが違うから、喋りたい時に、思いっきり喋らせてあげないと。

‐ 独特なコントロール方法があるんですね

ノムさんといえば、まだ、ヤクルトの監督をしている頃、オープン戦の中継企画で、ゲーム中に解説してもらった事がある、1イニングだけ。俺が企画して...。

‐ 現役監督が、試合中にですか

そう。ヤクルトの攻撃の時に、ベンチ横にあるリポーター席近くに来て頂いて、「ここまでの内容はどうですか?」「駄目だ、あんな奴は...」とか言いながら(笑)
で、「河村!」ってピッチングコーチを呼んで、「ピッチャー変えろ!」ってさ(笑)そういうのを、やった時があったんだよ、面白かったね。

‐ 面白いですね、でも野村さん位しか受けてもらえない企画ですね(苦笑)そういう中継も、また聞いてみたいですね

面白いけどさ、なかなかそれを現実までもっていける監督がいない訳だよ。監督も球団も口説かなければだめだしね。今は、色々とあるしね。

北海道のメディアだけだったら、栗山監督とか、原さんも、G+だったらやるかもしれないね(苦笑)もしやる事になっても、あまり真面目にやってもつまらないだろし、解説と言っても、自分が戦っている事を意識してやらなければいけないから難しいよね。

‐ 近くの選手に、ワザと聞こえるように、尻を叩くように話したり(笑)

そうそう。そういう事は、キャリアがある監督じゃないとできないね。

■ 抜いてみなさいよと(笑)

‐ 今シーズン、リーグ優勝を喋る、ツキを持ってたアナウンサーは誰になるんでしょうね

そうだなぁ。そういえば、この前、大泉くんがツイッターで「今年の夢は、ニッポン放送ショウアップナイターの本番中継を、10試合喋りたい」と呟いてたんだけどね、去年、(大泉アナ)は1試合かそこらだったんだけど、10試合喋るというのは、先輩を押しのける、先輩の本数が減るという事だからね。

‐ まだまだ抜かれんぞ!!と。

いやいや、抜いてみなさいよと(笑)
1回目は、彼は才能があるから、2回目は、ああなるほどね。と。その後は、リスナーさんの耳に残る実況が出来るかどうか。
俺は常に、《リスナー・ファースト》って言っているんだけど、得点経過とかさ、みんな言っているつもりになっているんだけど、言い方が下手。言い方が下手だから、リスナーの記憶に残らない。だったら、何を最初にやるべきか、考えてから中継しないと。

‐ たとえば、ダメな中継っていうと

それはさ、例えば野球の資料。俺もいっぱいつけてきたけど、今は、もう資料なんて、1/3くらいでいいやって。自分が調べたものを全部披露としようとするんだもん。
いま、野球が聞きたいっすよって。何対何で、どうなんだ、そのストレートの凄さは、どうなんだよ。っていうね。
リスナーさんが求めている事を言わなければいけないのにさ、そういう事を延々とやる人もいるんだからさ。その一言を飲み込みながら、「てな、時代もありましたね。ピッチャー投げた...」ってやらないと。

 

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(Write よこいみちひと)

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